3月26日(金)18時・サントリーホール
ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」。
北村の透徹した絶美のピアノに対して、井上の一昔前の時代を思わせる分厚い響きのオーケストラの組み合わせが不自然に感じられた。
6型対向配置、バロックティンパニという室内楽的な編成を生かすピリオド的奏法に井上は関心がないのか、得意ではないのか。
それにしても北村のピアノ、特に高音は水晶のように美しい。ピアノだけで始まる第1楽章冒頭は、かつての巨匠たち(たとえば、ディヌ・リパッティ)が行ったように、指ならしのアルペッジョから始めた。「運命」の動機を交えた第1楽章の長いカデンツァは自作だろうか?ロマン派作品を思わせるようなロマンチックな趣があった。
第3楽章最後の短いカデンツァも素晴らしい。春風に乗って桜の花びらが美しく舞い踊るようだった。
北村のアンコールは、桜満開の季節にちなんでか、シューマン『子どものためのアルバム』より「春の歌」第2楽章だった。
井上得意の作曲家ショスタコーヴィチ「交響曲第6番」は、昨日の高関の暗さを打ち出した演奏とは異なり、重苦しい第1楽章は井上のつくる音が明るく感じられ、高関ならなあ、という思いが浮かんだ。
諧謔に満ちた第2、第3楽章は井上の独壇場。中でも、第3楽章の乱舞は、バレエを嗜む井上の踊るような指揮も相まって、ショスタコーヴィチの狂気と皮肉がこれでもかとばかりに披露された。終わるとくるりと客席を向いて、『なんちゃって!」とばかりに肩をすくませる井上の動作に場内大受けだった。
ただ、ショスタコーヴィチが馬鹿騒ぎの裏に隠した、シニカルな視線やバーンスタインの言う偽善を抉り出すまでの深みは感じられなかった。
昨日の高関に続き今夜もソロカーテンコールになったが、井上はニキティンと腕を組んで現れた。
バーンスタインの解説(日本版ウィキペディアより)
『チャイコフスキーの「悲愴」とこの曲は共に交響曲第6番で、ロ短調である。そして「悲愴」は音楽史上初めて、長くゆったりとした終楽章を持ってきており、ショスタコーヴィチの第6番は、音楽史上初めて、長くゆったりとした第1楽章になっている。これは偶然などではなく、ショスタコーヴィチの第6番は「悲愴」を受け継いでいるのである。
この曲は当時の世界情勢を反映しており、作曲された1939年にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったが、独ソ不可侵条約により、ドイツはポーランドのソ連領には侵攻しなかった。「我が国は平和だ。」という偽善を表しているのが、第2楽章、第3楽章である。
第1楽章が長いのは、そこに注目させて、第2・第3楽章の真の狙いを覆い隠すためである』