本来2020年6月に新国立劇場と東京文化会館で上演される予定だった《ニュルンベルクのマイスタージンガー》はコロナ禍で1年延期となり、さらに今年8月に延期された東京文化会館の上演も初日を迎える直前に中止となってしまった。関係者の落胆は大きかったと思う。しかし上演への努力が実り、三度目の正直ではないが、今回ついに公演が実現した。聴衆の期待も大きく、初日から超満員だった。
公演の感想は、まず歌手陣の充実、そして大野和士都響の演奏の素晴らしさがあげられる。
設定がオペラ劇場という劇中劇の演出はイェンス=ダニエル・ヘルツォーク。違和感はそれほどないが、どこか無理なこじつけも感じられた。
歌手の筆頭はベックメッサーのアドリアン・エレート。この役を数限りなく歌ってきただけあり、歌唱には余裕があり、演技も堂に入ったもの。説得力と存在感が他の歌手よりも一段階上。第1幕第3場でヴァルターの歌を審査する際の黒板には「安、悪、無」など漢字がびっしりと書かれているのも面白い。
ベックメッサーが歌合戦で失態を演じ、逃げるように姿を消すという通常の演出とは違い、最後まで残ってヴァルターの歌を聴き、自己の至らなさを認めるという演出は良かった。
ハンス・ザックスのトーマス・ヨハネス・マイヤーは、この役を歌うのは初めてだという。そのためか、最初はどのようなザックス像を打ち出すのか明確に伝わってこない印象を受けた。第2幕第3場「ニワトコのモノローグ」は健闘していたが、もうひとつ心に響かない。歌劇場の監督というヘルツォークの設定にも無理があるかもしれない。エーファに扮したマグダレーネにセレナーデを歌うベックメッサーを、ハンマーを叩いて邪魔する第2幕第6場は勢いとユーモアがあり、親方ザックスのイメージにぴったり。監督がなぜ靴屋となるのかわからないが、小道具係からたたき上げたことを言わんとしているのだろうか。
しかし、第3幕(前奏曲の都響のチェロが素晴らしい音)のザックスの「迷いのモノローグ」からヴァルターへの歌のアドバイス、エーファへの思いと煩悶、あきらめと場面が続くうちに、マイヤーが徐々にザックスとしての存在感を増していったのは、ドラマの持つ力なのか、マイヤー自身の変貌なのか。
ポーグナーのギド・イェンティンスはベテランの味わい。見た目も知的で風格がある。第1幕第3場でポーグナーがマイスタージンガーたちに『我々がドイツの中でも唯一芸術を守りぬいているのにもかかわらず、ドイツの国々では我々市民はお金にケチで欲深いと悪く言われている』と演説する場面では、場内が突然明るくなり、マイスタージンガーたちが客席を向いて怒りの視線を投げかける。この演出の意図は何だろう?聴衆のあなたたちは果たして我々舞台人のことを本当に理解しているのかという投げかけだろうか?
ポーグナーが『エーファと全財産を新しいマイスタージンガーに捧げる』と演説を締める場面では、劇場の桟敷席から見ているエーファが悲嘆にくれるという演出もあった。
エーファの林正子は終始好調を維持して大健闘だった。ただ、第3幕第4場でザックスに感謝の気持ちを歌う場面は、もう少し感情移入して踏み込んだ歌唱にしてほしかったが、そこまでの情感が感じられなかった。あれは最後のどんでん返しへの伏線なのだろうか。
ヴァルター・フォン・シュトルツィングのシュテファン・フィンケは、やや一本調子だったが、急遽出演が決まったという事情があるので、一本気で血の気の多いヴァルターという役としては合っており、よく代役を務めたというべきだろう。
ダーヴィットの伊藤達人が素晴らしい。ヴァルターにマイスタージンガーの歌の規則を教える長い歌も完璧にこなし、声もよく通る。
マグダレーネの山下牧子も安定していた。
マイスタージンガーたちもそれぞれ好演。フリッツ・コートナー役、青山貴の”Fanget an!”『始めよ!』が小気味良い。
新国立劇場合唱団、二期会合唱団はよくまとまっていたと思う。
演出上は、ザクセン州立歌劇場に模した歌劇場が舞台となっており、オペラハウスで働く人々、大道具や小道具、衣裳担当などが民衆や靴屋やパン屋などの職人に結び付けられる。回り舞台をうまく使い、場面転換も早い。
ひとつのドラマが進行している間、舞台上の空間でももうひとつのドラマが進行しているという演出は、ステージに近い客席(今回は8列目)だと視野が全部をカバーしきれず、上を観たり下を向いたりと忙しく少し疲れた。1階後方や、2階、3階、4階は見やすいかもしれない。
ヴァルターがマイスタージンガーの称号を拒否すると、民衆が白けて次々と舞台から去っていき、ザックスと二人だけになるという演出もしゃれている。
最後のどんでん返しはネタばれになるので書かない。
大野和士都響の演奏が素晴らしかった。第1幕前奏曲こそ、最初の1音がとんでもない汚い音でたまげたが、すぐに持ち直し、ワーグナーの対位法的な管弦楽を見事に再現していった。劇が始まると大野のタクトはますます冴えを増し、歌手にぴたりとつける。音量のコントロールも見事。磨き抜かれた弦が美しい。コンサートマスターの矢部達哉のリードも大いに貢献していたのではないだろうか。
矢部達哉は新国立劇場のサイトのインタビューで「今回の公演では大野さんがいつも以上に生き生きとしていて頼りがいがある」と語っていたが、コンサートではいつも大野に辛口だった私も、今回は脱帽。これほど生きが良く、説得力満点の大野の指揮を聴くのは、2011年1月4日に同じ新国立劇場で聴いた「トリスタンとイゾルデ」以来。やはり大野和士は劇場が似合う人なのではないだろうか。
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オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World
リヒャルト・ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」<新制作>
全3幕
11月18日・新国立劇場オペラパレス
上演時間:
約5時間55分(第Ⅰ幕95分 休憩30分 第Ⅱ幕70分 休憩30分 第Ⅲ幕130分)
スタッフ
【指 揮】大野和士
【演 出】イェンス=ダニエル・ヘルツォーク
【美 術】マティス・ナイトハルト
【衣 裳】シビル・ゲデケ
【照 明】ファビオ・アントーチ
【振 付】ラムセス・ジグル
【演出補】ハイコ・ヘンチェル
【舞台監督】髙橋尚史
キャスト
【ハンス・ザックス】トーマス・ヨハネス・マイヤー
【ファイト・ポーグナー】ギド・イェンティンス
【クンツ・フォーゲルゲザング】村上公太
【コンラート・ナハティガル】与那城 敬
【ジクストゥス・ベックメッサー】アドリアン・エレート
【フリッツ・コートナー】青山 貴
【バルタザール・ツォルン】秋谷直之
【ウルリヒ・アイスリンガー】鈴木 准
【アウグスティン・モーザー】菅野 敦
【ヘルマン・オルテル】大沼 徹
【ハンス・シュヴァルツ】長谷川 顯
【ハンス・フォルツ】妻屋秀和
【ヴァルター・フォン・シュトルツィング】シュテファン・フィンケ
【ダーヴィット】伊藤達人
【エーファ】林 正子
【マグダレーネ】山下牧子
【夜警】志村文彦
【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団、二期会合唱団
【管弦楽】東京都交響楽団
【協力】日本ワーグナー協会
新国立劇場、東京文化会館、ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場の国際共同制作
写真©堀田力丸(撮影)、新国立劇場