(7月31日・サントリーホール)
場内が暗くなり、嵐の様子が照明で映される。P席のキプロス人たち(新国立劇場合唱団)、ステージに登場したイアーゴ(ダリボール・イェニス)、カッシオ(フランチェスコ・マルシーリア)、モンターノ(青山貴)、ロデリーゴ(村上敏明)がヴェネチアとトルコの軍船の闘いを不安げに見守る中、トルコの軍船は海に飲み込まれる。キプロス人たちが喜びを爆発させる。
チョン・ミョンフン東京フィルの冒頭の嵐の描写は、予想はしていたものの、金管の咆哮、木管の切り裂く音、スピード感のある分厚い弦などが強固に結びつき、ステージが振動するような凄まじさ。新国合唱団はビリビリと耳を震わすような強さで歌い、叫ぶ。オーケストラはひな壇を使わず、ステージ上平面で演奏する。コンサートマスターは近藤薫。
オテロのグレゴリー・クンデが、オルガン下手のドアから登場し、オルガンの前で
『Esultate!(喜べ!)』と第一声を叫ぶ。場内の空気を一変させる威厳のある声は、世界最高のオテロの面目躍如。この声が聴けただけで来た甲斐があったと思わせる。
イアーゴ(イェニス)がカッシオ(マルシーリア)を酔わせ、モンターノ(青山)との喧嘩が始まり大騒ぎとなり、それをオテロが収める場面が終わると、オテロとデスデーモナ(小林厚子)の愛の二重唱となる。
小林は日本の歌手特有のしっとりとした情感をヒロインの人物像と一体化させ、海外の歌手とは一味異なる滑らかで美しい歌唱を披露した。その存在感と声量、格調はクンデに引けをとらない。
オテロが「Un bacio… ancora un bacio,口づけを、今一度口づけを」とささやくように歌う場面はこの悲劇的なオペラに一時の安息をもたらした。
第2幕のイアーゴの奸計の場面。イアーゴのモノローグ(「クレード」)を歌うイェニスは、悪魔的なおぞましさがもうひとつ。むしろチョンと東京フィルが雄弁に悪を描写し、圧倒する。
イアーゴの策略にはまり、オテロとイアーゴが「天に向かって誓う」と恐ろしい復讐を歌う二重唱は前半の白眉。イェニスはクンデと組むことで実力を引き出されたのか、声自体の重みと迫力が増す。前半の締めにふさわしい盛り上がりで第2幕を終えた。
休憩後、第3幕冒頭のオテロとデスデーモナの緊迫の二重唱から、一気にドラマの核心に引き込まれる。ドラマがクライマックスに向かって緊迫していくにつれ、歌唱、演奏ともに一段と高いレベルに入っていった。
オテロがハンカチをなくしたデスデーモナを問い詰める場面は、オーケストラが雄弁だった前半とは違って、歌手がオーケストラを引っ張る。この二重唱は真実の瞬間。最も高い芸術的頂点、ヴェルディの書いた音楽の最高峰のひとつにも思える。二人の入魂の歌唱と演技は、文字通り真に迫っていた。
イアーゴがカッシオの家に置いてきたデスデーモナのハンカチを、他の女からの恋のメッセージと誤解したカッシオが取り出す姿を離れて見ているオテロの怒りと陽気な二人の三重唱も素晴らしかった。カッシオのマルシーリアも好歌唱。
ヴェネツィアの大使ロドヴィーコ(相沢創)が到着、オテロの本国への召還と後任はカッシオであることを伝える文書をオテロに渡す。ロドヴィーコが「カッシオの姿が見えないな」と語ると、イアーゴがすかさず「オテロの不興を買った」と伝え、デスデーモナが、「私はお許しをいただけると思っています」と言うとオテロの怒りが爆発、デスデーモナを突き倒す。「地に倒れ、泥にまみれ」とデスデーモナが歌う中、侍女エミーリア(中島郁子)の悲しみ、ロドヴィーコや群衆の驚きと同情の合唱、イアーゴとオテロのカッシオの殺害計画、オテロのデスデーモナへの呪いの言葉、などが混然一体となるアンサンブルは、劇的で壮大。
人払いしたオテロがうわごとのように「ハンカチだ、ハンカチだ」と錯乱して下手に消えると(ここでの演出は、倒れたオテロをイアーゴが足蹴にするものとは異なっていた)、イアーゴは下手を指さし、「これがあのライオンなのだ」と勝ち誇る。このイェニスの歌唱も気合が入っていた。
第4幕はデスデーモナの部屋。暗転の中、ソファベッドが運ばれる。エミーリア(中島)に髪をとかせながら「柳の歌」を悲し気に歌い、続いてエミーリアに死を悟ったかのように別れを告げ「アヴェ・マリア」を歌う。
この絶唱は素晴らしかった。オテロの仕打ちに打ちひしがれ絶望したデスデーモナの心理が深く歌われ、ヴェルディの音楽の凄さと小林厚子の歌唱が一体となる。ただ聴き入るほかない。「アヴェ・マリア」の悪を許す心の清浄さ。ヴェルディの宗教的な高みの頂点、ヴェルディの音楽の真髄。
オテロが不気味なコントラバスの音と共に登場する。この時チョン・ミョンフンはコントラバスに向かって両手を下におろすようなしぐさをした。そこから生まれる音の不気味さ、幽霊が現れたような恐怖の感覚は体験したことのない世界だった。
ヴェルディの音楽については以前ムーティのマクベスでも紹介したが、友人のマエストロ、ラルフ・ワイケルトは著書『指揮者の使命——音楽はいかに解釈されるのか』(井形ちづる訳・水曜社刊)の『ヴェルディ』の項でこう書いている。
『モーツァルトが型通りの伴奏音形によって舞台上の動きを描いたのに対し、ヴェルディは登場人物の心理状況と状態を描いています。ヴェルディの音楽を見ていると、それが葛藤にあふれたドラマトゥルギーを曖昧に描いているのではなく、的確さを求めていることがわかります』
チョン・ミョンフン東京フィルの今日の演奏は、まさにこの言葉通りだったが、コントラバスの音は中でもインパクトが大きかった。
潔白を伝え抵抗するデスデーモナをオテロが無慈悲にも絞め殺す。殺される前の小林とクンデの切迫したやりとりは、恐ろしいヴェルディの音楽と共に、聴き手をデスデーモナが味わう恐怖の只中に叩き込む。
エミーリアがドアをたたき叫び飛び込んできて、続いて入ってきたイアーゴ、ロドヴィーコ、カッシオの前で、オテロにイアーゴの策略を明らかにするさいの中島の迫力も凄まじい。
全てを知ったオテロはロドヴィーコの制止を聞かず、短刀で自分を刺す。第3幕、第4幕とクンデは歌唱、演技の集中力を高めてきたが、オテロ最後の場面はその集大成。
デスデーモナに「口づけを、今ひとたびの口づけを」と今際の言葉をかけ、死ぬ。
40年近く「オテロ」を探求してきたチョン・ミョンフンは暗譜での指揮。作品のすみずみまで知り尽くしたマエストロの指揮に東京フィルも鋭敏に反応、これまでの一連のオペラ演奏会形式の中でも、プッチーニ「蝶々夫人」と並ぶ、いやそれを超えた凄演を繰り広げた。主役二人、クンデと小林厚子の絶唱なくしては生まれなかった名演でもあった。
ヴェルディ「歌劇《オテロ》」(リコルディ版)
全4幕・日本語字幕付き原語(イタリア語)上演
原作:ウィリアム・シェイクスピア『オセロー』
台本:アッリーゴ・ボーイト
指揮:チョン・ミョンフン(東京フィル 名誉音楽監督)
オテロ:グレゴリー・クンデ
デズデーモナ:小林厚子
イアーゴ:ダリボール・イェニス
ロドヴィーコ:相沢 創
カッシオ:フランチェスコ・マルシーリア
エミーリア:中島郁子
ロデリーゴ:村上敏明
モンターノ:青山 貴
伝令:タン・ジュンボ
合唱:新国立劇場合唱団
コンサートマスター:近藤薫
写真は7月23日オーチャードホールでの公演。
撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団