(3月20日、東京文化会館大ホール)
作品の空虚性をインバルは言いたかったのだろうか。そう皮肉を言いたくなるほど、感動の少ない演奏会だった。
6年前のほぼ同じ時期、2012年3月23日、同じ会場で聴いたショスタコーヴィチ交響曲第4番では、私は「感動した。インバル&都響の完璧な演奏」と絶賛する一方で「レコーディング・セッションを見学しているみたいだ」と不満も書いていた。今日もマイクが立っていたので、録音が行われていたのだろう。
今思い当たった。やはりそうなのだ。よくそろった弦楽器。間違いのない金管と木管。正確な打楽器。おそらくCDで再生すれば、迫力のある音が部屋に響き渡るだろう。これがインバルと都響のショスタコーヴィチの特徴なのだ。弱音から強音までのダイナミックの幅はたしかにある。感情移入は少なく、突き放した即物的な演奏でもある。
しかし、これがショスタコーヴィチの音楽なのだろうか?
都響がオレグ・カエターニを迎えて、同じ《レニングラード》を演奏したコンサートも聴いた。(2013年9月25日、サントリーホール)
そのときのレヴューに「いわゆるロシア的な演奏でもなく、深刻で厳格な演奏ではないけれど、カエターニの人間賛歌のような包容力のあるスケールの大きな《レニングラード》も本当に素晴らしい。」と書いた。
ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》は、第2次世界大戦の独ソ戦のさなかに書かれ、熱狂的に世界で受け入れられたものの、冷戦後はその「空虚性」が指摘され、急速に評価が下がったが、1980年代後半から再評価されるようになった。
カエターニの指揮で聴いた感動がある以上、作品自体が空虚とは思えない。インバルが指揮を終えた後の上階からの多くのブラヴォは、演奏に満足している聴衆が多いことを示しているが、私には空しい内容だった。では6年前の自分の感動は何だったのだろうか。作品の違いか、自分の判断基準が変わったのか。あるいは、インバルと都響の演奏自体が違うのか。
それらが少しずつ関わっている、としか今は言いようがない。
写真:エリアフ・インバル(c) Sayaka Ikemoto