Quantcast
Channel: ベイのコンサート日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1645

上岡敏之 新日本フィル チャイコフスキー交響曲第6番《悲愴》

$
0
0

(3月23日すみだトリフォニーホール)

 2007年のヴッパタール交響楽団初来日の上岡敏之指揮チャイコフスキー《悲愴》に驚愕したことは覚えているが、今となっては細部の記憶がない。基本は変わっていないと思うが、11年前ぶりに聴いて再び衝撃を受けた。快速で、演奏時間は40分を切っていたと思う。(新日本フィル事務局に聞いたところ42分だった。)
 この曲については、チャイコフスキーの死の直前に書かれたこともあり、また作品自体の構造と内容から、「悲嘆」「絶望」「恐怖」「苦悩」が強調される演奏が多いが、上岡によって「夢の悲愴」「ドリーミング・パセティック」に包まれた。

 

1楽章展開部に入るファゴットのppppppは、pppの音で、消え入るようではない。通常、激烈な苦悩を思わせる展開部は、トランポリンの上で弾むような運動性がある。第1主題が再び最強奏されるところも深刻ではない。そして終結部では、「希望」のイメージが浮かんでくる。

2楽章に感じたのは、「夢」。チェロの旋律は夢の中で戯れるような心地よさに包まれる。ティンパニのリズムにのせて悲しい旋律が歌われる中間部も、悲しみよりも夢の続きのようだ。

スケルツォ的要素と行進曲が現れる第3楽章も重くならず、激しいクライマックスは、快活さと軽やかさを維持している。この楽章が終ると間髪入れず第4楽章に入って行くやり方はヴッパタール交響楽団との《悲愴》と同じやり方だ。個人的には、冒頭の主題を聴いてこの日初めて悲痛さを感じ、涙が浮かんだ。しかし、それは暗く悲しいのではなく、過去を感傷的に思い出すような甘さに包まれており、深刻ではない。

夢の続きのようなその優しい感傷に包まれる心地よさを感じながら、終結に向かっていく。悲嘆と苦悩はなく、チェロとコントラバスのみが残るコーダも、譜面通りpを維持し最後の2小節のみppppに落とし、早くに音を小さくすることはしない。音が消えたあとの静寂も、悲しみにひたることはなく、どこか清々しい。

 

上岡敏之がチャイコフスキーの楽譜から読み取ったことは『人生はつかの間の夢に過ぎない』なのか、あるいは『明日への希望を抱く』ことなのだろうか。

 

前半のレスピーギ「交響詩《ローマの泉》」は、大編成にもかかわらず、演奏がどこか縮こまっており、弱音でのアンサンブルの精度がなく、第2曲「朝のトリトンの噴水」のクライマックスでは管弦楽の輝かしさと勢いが不足していたのは残念。

コントラバス首席、渡邉玲雄のソロでのボッテシーニ「コントラバス協奏曲第2番」は、第1楽章カデンツァから流れがスムースになり、第23楽章は歌心に満ちていた。アンコールの「童神(わらびがみ)」は、古老が島唄を歌って聞かせる風情があった。

写真:上岡敏之(c)大窪道治

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1645

Trending Articles