(2月24日、新国立劇場)
新作のオペラ「紫苑物語」千秋楽。詳細な分析的レヴューは多くの方が書かれているので、ここでは個人的な感想を述べたい。
私自身は全く感動しなかった。台本も音楽も惹きつけるものがなかった。
そのわけを書き出すとたくさんある。
①ドラマの進行は原作を読んでいないとわかりづらい
第1幕冒頭から無言劇により、宗頼が父と対立し歌ではなく弓の道にすすむことが描かれるが、その詳しいいきさつ、なぜ歌ではなく弓に惹かれたのかは石川淳の原作を読んでいないとよくわからない。
②余計と思われる場面がある。
すぐに宗頼とうつろ姫の婚礼の場面になり、うつろ姫の色好みの世界が描かれるが、舞台を埋めつくす女官やら家来の意味不明の言葉、ケチャを使った家来たちの掛け声も含め15分も続くこの場面が長すぎる。エンタテインメント性を与えようと台本の佐々木幹郎は考えたのだろうか。
この場面がドラマの進行にはさほど重要とは思えなかった。
③意味不明の言葉
上記の意味不明の言葉を知るには能「翁(おきな)」、謡「神歌」の知識が必要。
婚礼でうつろ姫や家来たちが歌う「とうとうたらりたらりら。たらりあがりいららりどう。」のような歌詞は、能「翁(おきな)」で役者が神に変身して祝福の舞を舞うときに謡う天下泰平・国土安穏を祈る祈祷の言葉が使われているようだ。
そのほか「ぬばたま」が紫苑の花に覆われた死者たちの弔いの歌として、あるいは最後に死んだ人々を弔う平太と一体となった宗頼の念仏とともに歌われるが、これも意味がわからない。
「ぬばたま」は「黒」に関係深いものとして、「夜」「夕」「こよひ」「昨夜(きそ)」「髪」にかかる和歌の枕詞として使われるが、果たしてその意味は?
英語字幕ではBlackberry と出るが、これでは海外の人には全く通じないだろう。
こうした言葉は原作にはないものであり、あえて使う意図がわからない、
③最も重要な点として、なぜ宗頼が岩山の向こうに引き寄せられるのかが、明確に示されていない。
原作では宗頼の分身である平太との出会いが最初にある。本来なら第1幕であるべき。
理想郷に住み岩に仏を彫る平太に自分の分身を感ずるとともに、何か偽善的なものを嗅ぎ取った宗頼が仏を射ることで自家撞着を解消しようとする、主体性を取り戻そうとする、というのが「紫苑物語」の<肝>だと思う。
前半に平太との出会いがないため、徐々に仏を射ることに執着していくという宗頼の心の中の動きがわかりづらい。
宗頼の「真の動機」が誰にも分かるように説明されないのは台本の欠陥ではないだろうか。
④仏と鬼
原作では落とされた仏の首は悪鬼となって人々を睥睨し、「鬼の歌」を聞かせるところで終わる。監修の長木誠司はそれが「仏の尊顔に隠された真の顔」と読み替えたと言う。
であるとすればオペラでもその場面を描いてほしかったが、「鬼の歌」が冥界に去った人々の歌に重なるという場面だけで終わる。仏の裏に悪鬼が隠されているという明解な描写はなかったのはなぜだろう。
⑤音楽的についていけない。
歌手たちは、語るように歌う「シュプレッヒシュテンメ」がほとんどであり、いわゆるアリアのような美しい旋律は望むべくもない。終始叫び続けられるのは聴いていてつらい。
大野和士によれば、日本のオペラにこれまでなかった三重唱や四重唱を盛り込みたかったとのことだが、第2幕3場の藤内とうつろ姫、宗頼と千草の四重唱も「シュプレッヒシュテンメ」が飛び交い、4人の絶叫が交わされるというもので、歌詞は聴きとれず字幕に頼るしかない。音楽的にもまったく感じるものがなかった。
西村朗の音楽は特別新しいものが感じられない。サスペンス映画のサウンドトラック音楽のように感じた。
⑥石川淳の格調高い原作はどこにある。
文学がオペラ化されるさい、オリジナルは換骨奪胎され別のものに変えられるのはやむを得ないとはいえ、石川淳の格調高い文体とリズムが、このオペラからは全くと言ってよいほど感じられなかったのは残念。
以上、個人的な感想を書いてきたが、NHKTVでの放映も予定されているので、見落とした部分、間違って解釈した点があれば確認してみたい。
西村朗「紫苑物語」(制作委嘱作品・世界初演)
原作:石川淳
作曲:西村 朗
台本:佐々木幹郎
演出:笈田ヨシ
美術:トム・シェンク
衣裳:リチャード・ハドソン
照明:ルッツ・デッペ
振付:前田清実
監修:長木誠司
舞台監督:髙橋尚史
宗頼:髙田智宏
平太:大沼徹
うつろ姫:清水華澄
千草:臼木あい
藤内:村上敏明
弓麻呂:河野克典
父:小山陽二郎
家来:川村章仁
合唱指揮:三澤洋史
音楽ヘッド・コーチ:石坂宏
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京都交響楽団
芸術監督:大野和士