本日放送です。
NHK[BSプレミアム]
「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」<字幕スーパー>
2020年8月16日(日) 午後11:00~午前0:37(97分)
世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチの素顔に迫るドキュメンタリー。実娘のステファニーが監督・撮影をてがけ、母、女性、天才音楽家としての知られざる姿を映し出す。
クラシック音楽界の“女神”としてたたえられ、50年以上にもわたり第一線で活躍し続けているアルゼンチン出身の世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチ。しかし、急な演奏会のキャンセルや取材拒否、父親の違う3人の娘など、その私生活は謎に包まれていた。そんなマルタに、三女のステファニー・アルゲリッチが密着。母として、女性として、天才音楽家の素顔に迫り、知られざる姿を映し出していく音楽ドキュメンタリー。
(C)Idéale Audience & Intermezzo Films.
https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2020-08-16&ch=10&eid=05466&f=2336
本日放送 NHK [BSプレミアム] 「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」
読響サマーフェスティバル2020《三大交響曲》(8月19日・サントリーホール)(再掲載)
誤って記事を消去してしまったので、再掲載しました。
この機会に少し加筆しました。
気鋭の若手指揮者、角田鋼亮(つのだこうすけ)が読響サマーフェスティバル《三大交響曲》に登場、新鮮な演奏を聴かせてくれた。
長身で指揮姿も美しい。歌心にあふれた演奏は、品格があり、細部まで目が行き届いた素晴らしいものだった。
詳しくは「音楽の友」10月号コンサート・レヴューに書きます。
角田の指揮はフレージングが滑らかで、ハーモニーは細やかで美しい。その和声の変化の上で歌う旋律が素晴らしく美しい。
クライマックスも充分な力感がある。
角田は2008年カラヤン生誕100周年記念の第4回ドイツ全音楽大学指揮コンクール第2位に入賞。現在、セントラル愛知交響楽団の常任指揮者をはじめ、大阪フィル、仙台フィルの指揮者も務めている。
これからも在京オーケストラを数多く指揮してほしいと強く願う。
読響サマーフェスティバル2020 《三大協奏曲》 (8月22日・サントリーホール)
●太田 弦(指揮)、戸澤采紀(ヴァイオリン)、佐藤晴真(チェロ)、辻井伸行(ピアノ)
●メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」、ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」
若くフレッシュなアーティストによる《三大協奏曲》。
メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」を弾いた戸澤采紀は、東京シティ・フィルコンサートマスター戸澤哲夫さんのお嬢さんでもある。第85回日本音楽コンクールで最年少優勝。現在藝大に宗次徳二(宗次ホールオーナー)特別奨学生として在学中。読響とは初共演。
第1楽章カデンツァで戸澤采紀の実力が伺えた。正確な音程、構えの大きなフレージング、成熟した表情は堂々としていた。全体に緩徐部分の方が音楽を深く表現できていた。
戸澤はオーケストラとの共演回数はまだそれほど多くないのか、自分が主役であるという押し出しがやや控え目に感じた。
その要因は太田 弦の指揮にもあるかもしれない。太田はフェイスシールドをつけて指揮したが、1曲目でエンジンがかかってないのか、無難なバックではあるが、戸澤と丁々発止のやりとりを交わすまでに至っていないようにも思えた。コンサートマスターは19日と同じく長原幸太。
ただ戸澤も太田もロマン派屈指の美しい作品ということで、優美さに重点を置いた可能性もある。
ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」のソリスト佐藤晴真は2019年難関のミュンヘン国際音楽コンクールチェロ部門で日本人として初めて優勝、現在ベルリン芸術大学で学んでいる。彼も読響初登場となる。
佐藤の演奏は「完璧」の一言。正確な音程、楽章ごとの性格の描き分けなど、どこにも欠点が見えない。第1楽章展開部最後の上行半音階や、第3楽章終結部の雄大なソロも素晴らしかった。
小澤征爾がチェリストの宮田大に、『もっと汚いものも出せ』とアドバイスしていた録画を見たことがあるが、欲を言えば、佐藤にも、ドヴォルザークの民族性を出すため、もう少し泥臭い荒々しさも出してほしいと思った。
太田&読響は熱気がこもり、激しさと繊細さのメリハリがあり、木管やホルンのソロもなかなか良かった。
休憩後トリを務めた辻井伸行は、ヴィルトゥオーゾと呼びたいスケールの大きな演奏を聴かせた。
辻井の弾く、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」は2012年小林研一郎&読響、2019年ヴァシリー・ペトレンコ&ロイヤル・リヴァプール・フィル以来三度目となるが、昨年聴いたときは、その成長ぶりに驚いた。
第1楽章では大音量で迫る読響に対して、まったく負けていない堂々とした演奏を繰り広げた。長大なカデンツァの高音部もとても美しい。読響のホルントップは日橋辰朗に代わり、冒頭から素晴らしい演奏を披露していた。
辻井伸行ファンが大勢詰めかけたのか、女性が目立つ聴衆の辻井への拍手も盛大だった。
辻井伸行:ⓒYuji Hori 佐藤晴真:ⓒTomoko Hidaki
太田弦:ⓒai ueda
高関健 東京シティ・フィル 山根一仁(ヴァイオリン)(8月29日・東京オペラシティ)
●指揮:高関 健、ヴァイオリン:山根一仁
●コープランド「市民のためのファンファーレ」、ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調」、リヒャルト・シュトラウス「13管楽器のためのセレナード」、「メタモルフォーゼン」
4月の定期演奏会の代替公演だが、曲目がブラームス「ピアノ協奏曲第1番」、R.シュトラウス「交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」から、上記に変更になった。シュトラウスは18型4管編成のオーケストラが必要であり、コロナ禍では演奏できないとのこと。
コープランド「市民のためのファンファーレ」は、大野和士都響、原田慶太楼東響、に続いて今年3回目。 冒頭トランペットが力を入れ過ぎたのか音が少し裏返る。ホルンの音程も安定しない。打楽器は、もう少し締まった音がほしかった。
ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調」での山根一仁の演奏は3年前のラザレフ日本フィルとのチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」や、今年1月のトッパンホール・ニューイヤーコンサートでのヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲集《四季》」と較べると、作品の様式感の違いもあるだろうが、はるかに逞しく、スケールが大きく聞こえた。
山根一仁の音程の正確さ、技術の安定は揺るぎなく、音色の美しさは、さらに磨きがかかっている。この先はいかに深い表現が出来るか、作品の本質に迫るかが課題だろう。その点、ショスタコーヴィッチの第3楽章カデンツァは重音もしっかり鳴らすが、ショスタコーヴィチの苦悩は伝わって来ず、物足りない。
高関健東京シティ・フィルのバックは充実していたが、山根一仁の美音と較べると、少し粗さを感じた。第2楽章スケルツォの後半のフーガは難しく毎回神に祈りながら指揮していると高関健はプレトークで語ったが、今日はうまく指揮できたようだ。
後半、リヒャルト・シュトラウス「13管楽器のためのセレナード」は、高関健が大学1年生で初めて指揮した、しかも1曲目の思い出の作品だという。東京シティ・フィルの木管はオーボエの本多啓佑、フルートの竹山 愛、クラリネットとホルン(客演?)が良かった。
R.シュトラウスが第二次大戦末期1945年に書いたドイツ帝国の終焉を悲しむ音楽ともいうべき「メタモルフォーゼン」は、本来ヴァイオリン10、ヴィオラ5、チェロ5、コントラバス3の23人の弦楽器奏者のための作品だが、高関健はそれを倍にして、ヴァイオリン22人、ヴィオラ10人、チェロ10人、コントラバス6人計48人の大編成にした。
シンフォニックな効果が出るとのこと。ただし、総奏以外の小グループで演奏する部分は、高関健の判断で少し変えたそうだ。
カラヤンがR.シュトラウスに直接「増やして演奏していいか」と聞き、「やってみたら」という返事をもらい、18型のオーケストラで演奏したのを高関健は聴いたという。
演奏は客演首席の大友肇(クァルテット・エクセルシオ)が率いるにチェロの響きが良く、全体も分厚いハーモニーが生まれていた。ただ作品の性格もあるのか、R.シュトラウスの艶やかさや色彩感はなく、どこかくすんだ印象があった。
山根一仁©K.MIURA 高関健© Masahide Sato
小林研一郎 宮田大(チェロ)読売日本交響楽団 (9月2日・サントリーホール)
●ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」、リムスキー=コルサコフ「交響組曲《シェエラザード》」
宮田大は聴く度に成長していることに驚く。技術的に益々磨きがかかり、音程も正確、安定感は盤石である。名器1698年製ストラディヴァリウス”Cholmodeley”の音が艶やかに朗々と響き渡り、高音の最弱音の繊細な表情は冴え渡っていた。
小林、読響は、ゆったりとしたテンポで、宮田大を細やかにサポートしていく。オーケストラの総奏部分は壮大に鳴らす。読響はクラリネット、フルート、オーボエ、ホルンが名人芸を繰り広げた。
第1楽章と第2楽章の第2主題は、ドヴォルザークが書いた屈指の名旋律だが、宮田は思い入れたっぷりに弾くのではなく、意外なほど淡々と弾いた。それを聴いて物足りなく、せっかくの聴かせどころなのに、もったいないとも思ったが、ひょっとしたら宮田は自分の演奏をさらに広く深く極めようとしているのかもしれない、という考えが浮かんできた。芸風をさらに大きく発展させるため、細部の情緒に溺れるのではなく、全体の構成やスケール感を重視しているのではないだろうか。
いずれにせよ、宮田大が巨匠への道を着実に進んでいることだけは間違いない。
演奏後の宮田への拍手は爆発的で、楽器を叩いて称賛する楽員たちも宮田に感服している様子が伺えた。
アンコールは、カザルス「鳥の歌」が深々と奏でられた。
後半は、リムスキー=コルサコフ「交響組曲《シェエラザード》」。小林は、遅いテンポで、雄大な演奏を繰り広げた。シャリアール王の主題を豪快に鳴らし、第3楽章「若い王子と王女」のメロディをこれでもかとばかりに、ロマンティックに歌わせる。小林の指揮は言葉が悪いが、いささか芝居じみており、色彩感や洗練された表情は少ない。
しかし、読響の首席に常にスポットライトを当て、思う存分に彼らにソロを演奏させ、オーケストラの中から引き立てる指揮は素晴らしかった。
コンサートマスター日下紗矢子は妖艶でキリリとした、芯の強い絶世の美女が目に浮かぶような見事なソロを聴かせた。チェロの遠藤真理、フルートのフリスト・ドブリノヴ、オーボエ蠣崎耕三、クラリネット金子平、ファゴット吉田将、ホルン日橋辰朗、トランペット辻本 憲一、トロンボーン青木昂らのソロも伸びやかで素晴らしい。ピッコロも良かった。読響の首席陣の技術の高さを知らしめた。
アンコールは、この状況(コロナ禍)の中の癒しの音楽としてと、小林研一郎は前置きして、マスカーニ「歌劇《カヴァレリア・ルスティカーニ》」から「間奏曲」が演奏された。
宮田大©亀村俊二 小林研一郎©満田聡
秋山和慶 菅沼希望(コントラバス) 新日本フィル(9月3日・サントリーホール)
プログラム:シェーンベルク「浄められた夜」、ヴァンハル「コントラバス協奏曲」
ハイドン「交響曲第104番 《ロンドン》」
「浄められた夜」では、秋山の正確な棒に新日本フィルは緻密なアンサンブルで応える。10型両翼配置で、コントラバスは正面に3人。コンサートマスターは、崔(チェ)文洙。チェロの客演首席に東京フィルの渡邉辰紀が入っており、ソロも良かった。
新日本フィルの弦は、いつもながら柔らかく美しいが、この作品のクライマックスは、もう少し強靭さが欲しい。ただ、暗から明への転換と、コーダの風がそよぐような第2ヴァイオリンの動きは繊細さがあった。
ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739~1813)はボヘミアの作曲家。ハイドン(第1ヴァイオリン)、ディッタースドルフ(第2ヴァイオリン)、モーツァルト(ヴィオラ)、ヴァンハル(チェロ)が一緒に弦楽四重奏曲を演奏したという逸話が残っているそうだ。
コントラバス協奏曲のソリストは、首席の菅沼希望(のぞみ)。ハイポジションの高音が多く難しいこの曲を立派に弾いた。3つの楽章ごとにあるカデンツァも見事だった。
曲はこの映像にあるように、爽やかで明るい。
https://www.youtube.com/watch?v=sxnXMT7-9LQ
ハイドン「交響曲第104番《ロンドン》」は、素晴らしかった。新日本フィルには、朝比奈隆とカザルスポールで行ったハイドン交響曲全曲ツィクルスのDNAが維持されており、新日本フィルの上品な弦の響き、柔らかな木管という長所が最高度に発揮される。
秋山の指揮は、先日のフェスタサマーミューザでの《田園》《運命》の名演以来、注目しているが、今日の指揮も、第1楽章の重厚なニ短調の序奏から堂々としており、二長調の主題に流れるように入っていく。展開部も引き締まって充実している。
第2楽章は秋山が流麗で新日本フィルの弦から艶やかな音を引き出す。
第3楽章メヌエットで時々挿入される休止は、もう少しユーモラスにしてもいいと思うが、秋山は真面目にきっちり繰り返していく。トリオはほのぼのとした味わい。
終楽章の爆発的で生き生きとした演奏は、後のベートーヴェンの交響曲の最終楽章を思わせ、この作品がハイドンの最高傑作のひとつであることを納得させる勢いと集中力があった。
山田和樹 日本フィル 横坂源(チェロ) 沼沢淑音(ピアノ) (9月4日・サントリーホール)
指揮:山田和樹[正指揮者]
チェロ:横坂源
ピアノ:沼沢淑音
プログラム:
ガーシュウィン:アイ・ガット・リズム変奏曲
ミシェル・ルグラン:チェロ協奏曲(日本初演)
五十嵐琴未:櫻暁(おうぎょう) for Japan Philharmonic Orchestra(世界初演)
ラヴェル:バレエ音楽《マ・メール・ロワ》
プレトークに登場した山田和樹の第一声は『戻ってまいりました、サントリーホール!』。東京混声合唱団開発の歌えるマスクをつけ、『注文殺到で1万5千枚も売れ、東混はマスク屋のようです』とジョークを飛ばし、9月に始まる日本フィルの開幕定期演奏会スタートの喜びを語った。2時間のフルコンサートは初めてだという。
山田いわく、ここ数年シーズンのオープニングを任されており、いつも趣向を凝らしたプログラムを考える。
今日のプログラムの後半は本来、水野修孝「交響曲第4番」だったが、編成が大きいため、今回は見送った。今日のプログラムは、ラヴェルが鍵。ガーシュウィンが弟子入りを頼み、「二流のラヴェルになることはない」と言われ、逆にラヴェルは後にジャズの要素を取り入れた。
ミシェル・ルグランは、シリアスな作品で映画音楽とは全く異なる。80歳を過ぎて、ピアノ協奏曲とともに書いた。今日は日本初演。ジャズの要素があり、複雑な曲。5つの楽章からなり、第4楽章でチェロとピアノが二重奏を奏でる。チェロは素晴らしい横坂源さん。ガーシュインとルグランのピアノは沼沢淑音さん。
五十嵐琴未さんの「櫻暁(おうぎょう)」は7月中旬に、日本フィルのイメージ「桜」と、未来に向ける「暁(あかつき)」をイメージした5分くらいの作品を依頼した。
偶然だが、「暁(あかつき)」は日本フィル創立指揮者の渡邉暁雄先生の名前の一文字と同じ。
ラヴェル「バレエ音楽《マ・メール・ロワ》」は、ふだん組曲が演奏されるが、今日は序曲と間奏曲があるバレエ音楽の方を演奏する。
プレトークをほぼ紹介したので長くなってしまった。以下はコンサート・レヴューです。
ガーシュウィン《アイ・ガット・リズム》変奏曲は、色彩豊かでリズムの乗りが良く、山田和樹の面目躍如。ピアノの沼沢叔音(よしと)のピアノも軽やかで色彩が感じられる。
ミシェル・ルグランのチェロ協奏曲は、日本初演。映画音楽とは違い、クラシック語法を使った現代音楽。5楽章からなり、急─緩─急の楽章に続いて第4楽章は、チェロとピアノだけの二重奏となる。終楽章は、「レントよりゆっくりと」という指示のもと、チェロがゆっくりと歌い続け、最後は消え入るように終わる。
チェロは、横坂源。チェロは全曲ほぼ引き続けなければならない。横坂源のしなやかで艶のあるチェロは、最後まで充実しており、山田の指揮もガーシュウィンに続き、色彩感と切れ味があった。横坂源と沼沢淑音との二重奏にジャズを感じる。
ルグランが80歳を超えてから書いたこの作品は、ジャズ的リズムや構成の新しさ、抒情性は独自だが、全体として20世紀に入ってからの、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチ、オネゲルなどのチェロ協奏曲の枠を越えるような目新しさはない。生涯最後に、本格的なクラシック音楽を作曲し残したいという気持ちが押さえられなくなったのかもしれない。
横坂のアンコールは、カザルス「鳥の歌」。先日読響で聴いた宮田大はソロだったが、今回は日本フィルのチェロ・セクション4人による伴奏がついた。そのトップはミュンヘン国際音楽コンクールで、日本人として初めて優勝した佐藤晴真だった。佐藤は先だって、新日本フィルにも客演しており、各オーケストラに参加することで、オーケストラの勉強をしているのだろう。
横坂源のチェロの音や響きは、宮田大とは対照的で面白かった。言葉では難しいが、横坂がしっとりと潤いのあるチェロであるのに対し、宮田大は少し乾いた大陸的なスケールと土の匂いがする。
五十嵐琴未「櫻暁(おうぎょう)」は、弦楽器と管楽器だけの、夜明け前の光景が浮かぶような静謐な作品。ガーシュイン、ルグランの次に聴くと、淡白でしとやかで、日本そのものを感じる。
最後のラヴェル《マ・メール・ロワ》」は、フランス的な柔らかさと繊細さ、キラキラとした色彩感に満ちており、日本人の指揮者の中でもとびぬけてフランス的な色彩感を持つ山田の特長が良く出ていた。
望むらくは、終曲「妖精の庭」の盛り上げは、もう少し壮大なスケールで行ってほしかった。ただ、本来なら大きな編成で演奏するところを、10-8-6-4-3の10型という編成上の限界もあったのかもしれない。
山田和樹©Yoshinori Tsuru 沼沢淑音©Tomokatsu Seta
尾高忠明 読売日本交響楽団 小曽根真(ピアノ) (9月8日・サントリーホール)
プログラム
グレース・ウィリアムズ:海のスケッチ
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
ペルト:フェスティーナ・レンテ
オネゲル:交響曲第2番
「音楽に、希望を込めて。」と題されたコンサート。ほぼ弦楽器のみで演奏される作品が3曲並び、間に明るさと影が交錯するモーツァルトのピアノ協奏曲第23番が入る。
弦は12型で、モーツァルトのみ10型になる。コンサートマスターは日下紗矢子。
尾高はBBCウェールズ・ナショナル管弦楽団とのライヴがyoutubeにあるように、ウィリアムズ「海のスケッチ」をイギリスですでに指揮しており、完全に手の内に入った演奏は、この夜最高の聴きものだった。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=MfO6SodPQWo&t=698s
尾高&読響は、女性作曲家ウィリアムズの細やかな感性と美意識による名作を鮮やかに描いた。
第1楽章「強風」は、激しい風を描写する弦の動きに隙のない緻密な演奏。
第2楽章「航海の歌」は、対位法的に重なりあう静かな旋律を、細やかに紡いでいく。
第3楽章「セイレーン海峡」は、チェロやヴァイオリンのソロを挟みながら、重層的な旋律の重なりを美しく描く。
第4楽章「砕ける波」の、リズムとメロディが交差する複雑な動きも明快。
第5楽章「夏の穏やかな海」は、海の色、潮の香り、青い海と白い雲、風の動きが、細やかに描写され、五感を刺激して、自分も海岸にいるようだった。
モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」では、読響との共演も多い、小曽根真が登場し、軽やかで明るい、ギャラントなモーツァルトを聴かせた。
第1楽章のカデンツァは小曽根の自作だと思うが、モーツァルトの様式感と違和感なく、モダンでお洒落な雰囲気があった。
ただ、小曽根のピアノは高音の美しさと潤いは素晴らしいものの、モーツァルトの陰影の濃さや、音楽の深みはあまり感じられない。
アンコールは、読響のコントラバス首席の大槻健とともに、デューク・エリントン「A列車で行こう」を弾いたが、これは文句なしに素晴らしかった。水を得た魚のように、音楽は生き生きと輝き出し、アドリブのフレーズの豊富さ、新鮮さは世界的ジャズ・プレイヤー、小曽根真の面目躍如。サントリーホールは一瞬のうちにニューヨークのブルーノートに変身した。
後半のペルト「フェスティーナ・レンテ」は、“ゆっくりと急げ”という意味の欧州の古い格言をタイトルにしている。
ウィリアムズと似た動きや雰囲気があった。ハープが曲調の節目ごとに短い音を加えていく。一度終わるかと思うと、もう一度盛り上がっていく構成も面白い。コーダの静謐と長い静寂は、祈りの時間でもあった。
オネゲルの「交響曲第2番」の生演奏を聴くのは30数年ぶり。
今はない、五反田の簡易保険ホールで、小澤征爾指揮、桐朋学園オーケストラで聴いて以来。最前列で、小澤征爾を見上げながら、弦の桐朋の引き締まった演奏を聴いたことを、懐かしく思い出す。あの時のメンバーのうち何人かは、在京オーケストラのどこかに所属しているのだろうか。
暗く重い戦争の影が重くのしかかるような、第1、第2楽章のあと、終楽章で、首席長谷川潤の吹くトランペットがコラールを高らかに歌い上げ、希望を残して終わった。
読響の弦のアンサンブルの緊密さにはいつも感心させられるが、今夜のようなプログラムで聴くと、改めてその水準の高さを認識する。張りがあり、どんな弱奏や強奏にも柔軟に対応でき、安定している。
尾高忠明© Martin Richardson 小曽根真© K.Nakamura
矢崎彦太郎 新日本フィル 三浦文彰(ヴァイオリン) (9月11日・すみだトリフォニーホール)
プログラム
ビゼー:カルメン組曲第1番
サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 op. 61
プーランク:シンフォニエッタ
矢崎彦太郎の指揮を聴くのは、今回が初めて。上智大学数学科から、東京藝大指揮課という異色の経歴。1970年から2年間、小澤征爾のもとで、日本フィル指揮研究員として、助手を務め、その後ヨーロッパへ行き、スワロフスキー、コシュラー、チェリビダッケ、デルヴォーらに師事。旧西ドイツ、ホフ交響楽団の音楽監督、フランス国立トゥールーズ室内管弦楽団の首席客演指揮者、他を務めた。ボルドー歌劇場、二期会でもオペラを指揮している。フランス音楽に強いという印象があるが、今日はまさにフランス音楽プログラム。
ビゼー「カルメン組曲第1番」は、「前奏曲」(有名な華やかなイントロダクションではなく、後半の悲劇的な部分)から、パワー全開。
矢崎は新日本フィルの弦から最大限のトレモロを引き出し、トロンボーンを強烈に鳴らす。
「アラゴネーズ」は色彩豊か。オーボエは1985年から90年まで新日本フィルの首席だった小畑善昭がゲストで入っており、艶やかな演奏を披露した。
「間奏曲」はフルート首席の野津雄太の素晴らしいソロと、ゲストで入っていた2018年日本音楽コンクール第1位のクラリネットの中舘壮志が加わった、輪郭のくっきりとした二重奏が素晴らしい。
「セキディーリャ」が終わり、「アルカラの竜騎兵」では、ファゴット首席河村幹子を際立たせ、終曲「闘牛士」は、再び強烈に始める。しかし、弦による闘牛士のテーマは、意外にあっさりとしていた。
全体に色彩感豊かで、野性味があり、面白かった。
三浦文彰は、7月21日小林研一郎指揮読響とのモーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》」で、艶やかで滴るような美音と繊細な表情で、これぞモーツァルトというべき瞠目するような素晴らしい演奏を聴かせ、カデンツァも妹の三浦舞夏の作曲したものを使うという意欲的な姿勢を見せていた。
そのため、今日のサン=サーンス「ヴァイオリン協奏曲第3番」は、大いに期待していたのだが、残念ながら、やや期待外れだった。
サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番という、ヴァイオリニストが自己の練り上げられた華やかな技巧を次々と披露し、聴き手を魅了する作品にしては、演奏に冴えたものがなく、鋭い切れ味が感じられなかった。スリリングな技巧に酔えなかった。「通して弾いてみましたというばかりの演奏」というのは、少し言い過ぎだろうか。第1楽章後半と終楽章は、熱が入ってそれなりに盛り上げてはくれたが。
準備不足は明らかだった。売れっ子なので、忙しすぎるのかもしれないが、もう少し作品を深く掘り下げコンサートに臨み、一回一回のステージを大切にして欲しい。
ただ、アンコールのアンリ・ヴュータン「アメリカの思い出《ヤンキードゥードゥル》」は、凄かった。普通はピアノの伴奏がつくが、三浦はソロで弾いた。左手のピッツィカート、高音のフラジオレット、超高速のパッセージも安定している。ただ、ヴュータン版よりもテクニックがさらに複雑になっていたように思えた。ソロバージョンでもあり、三浦が少し手を加えたかもしれない。
後半は、プーランク「シンフォニエッタ」。ゆったりとして、伸びやかな第3楽章が一番良かった。色彩感のあるハーモニーはパステル画を見るようだった。
アンコールは、ラヴェル「クープランの墓」から、<メヌエット>。オーボエの小畑善昭のソロがここでも良かった。新日本フィルはオーボエ首席の古部賢一が抜けた穴がまだ埋まっていない。早く次の首席が決まるといいのだが。
写真:矢崎彦太郎©有田周平
鈴木優人 読売日本交響楽団 郷古 廉(ヴァイオリン) (9月11日・東京芸術劇場)
プログラム
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は若武者、郷古廉による男性的で剛毅な演奏。切れの良い、強靭なヴァイオリン。歌うべきところは艶やかに歌い、繊細さもある。
郷古の演奏は求道的でもあり、どこか人を寄せ付けない雰囲気もあるが、今日の演奏は、この作品の理想的な演奏のひとつに思える。聴き終わって、清々しい気持ちになった。
第1楽章のカデンツァは、ソロと弦楽のやり取りがはさまれる初めて聴くもの。ブゾーニ作とのこと。
第2楽章中間部は、ピンと張った伸びの良い音で、細やかに装飾され、その美しさに陶然となった。
鈴木優人の指揮は、力感に満ちていた。最初の管弦楽だけの前奏は、出だしを聴いて鳴らしすぎではと思ったが、郷古のソロとバランスをとりながら、ぴったりとつけて行った。結果的に郷古の力強さと良く合っていた。
郷古への聴衆、楽員からの拍手は盛大で、鈴木優人も椅子を持ち出し、アンコールを促した。アンコールの曲は現時点では不明。バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータの中の曲のようで、少し違う印象。わかり次第追記します。
後半の《田園》は、鈴木優人のバッハ・コレギウム・ジャパンでの活躍から、古楽的なノンヴィブラートの演奏を予想したが、ごくオーソドックスな解釈だった。
オーケストラは12型の対向配置で、コントラバスとチェロを下手に置いた。
コンサートマスターは、長原幸太。
演奏は、活気に溢れ、生命力がみなぎり、第2楽章は温かな演奏になっていた。
ただ、分厚い響きは充実していたが、各パートの分離がいまひとつで、強奏では音の混濁をもたらしたように思えた。私の個人的な好みの構造がすっきりと見通せる明快な演奏を期待していたので、少し残念だった。
鈴木優人©Marco Borggreve
原田 慶太楼 東京交響楽団 鐵百合奈(ピアノ) (9月13日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
プログラム
スッペ:喜歌劇「詩人と農夫」序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第0番
プロコフィエフ:交響曲 第5番
スッぺ喜歌劇「詩人と農夫」序曲は 胸のすくような生きのいい演奏。拍手が終わらないうちにすぐ演奏を始めるのも、勢いを感じさせる。チェロ首席伊藤文嗣のソロが、柔らかく深く、よく歌って良かった。ワルツの部分はリズムが重くならず、洗練された三拍子。原田はダンスもうまいのではと思った。 金管、打楽器は派手に鳴らすが、弦とのバランスはとれており、勢いだけの演奏ではない。最後はアッチェランドで追い込み、華々しく終わる。原田は、ハチャメチャのようで、よくオーケストラが聴こえており、どれだけ派手にやっても、下品にならないところに音楽センスの良さを感じさせる。
ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第0番」を聴くのは初めて。13歳の時の作品で、ハイドン、モーツァルト、エマニュエル・バッハの影響のもとに書かれており、後のベートーヴェンらしさを見つけることは難しい。自筆譜は残っておらず、筆写譜のピアノソロパートのみが残された。ただ、そのピアノ譜に管弦楽の前奏と間奏が書かれ、楽器指定もあるため、1943年ヴィリー・ヘスがオーケストラパートを復元。今日はその版を使った。
他には、オランダのピアニスト、ロナルド・ブラウティガムによるもの(BISに録音あり)、ボストン大学のジョン・ミッチェルによるもの、ハワード・シェリーによるもの(シャンドスのベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集に収録)などが存在する、とのこと。
ピアノがほぼ弾きっぱなしで活躍、多くの装飾音が華麗な雰囲気をつくる鐵百合奈(てつゆりな)のピアノは、高音の情感のある瑞々しい音が魅力で、可愛らしいこの作品にふさわしい。
第1楽章のカデンツァは、ヘスのものではなく、鐵のオリジナルで、ベートーヴェンのこの時期の作品「選帝侯ソナタ」WoO47を参考にしたとのこと。第3楽章の主題は可愛らしく。耳に残る。原田東響は、丁寧なバック。鐵のアンコールは、ベートーヴェンの初期作品のように思えた。「選帝侯ソナタ」の3曲の中のいずれかの楽章かもしれないが、違う気もする。
原田慶太楼指揮のプロコフィエフ「交響曲第5番」は、細部まで完璧に彫琢され、明解極まりない名演。加えて、輝かしさ、ド迫力のダイナミズム、さらには第3楽章アダージョでの深みもある。
明るく華麗な色彩豊かな響きは、この作品のテーマ「人類の精神の勝利」にふさわしい。東京交響楽団の集中力と技術には感嘆する。コンサートマスター水谷晃以下、全楽員が最高度の燃焼ぶり。原田との信頼感も万全で、相性もぴったり。東響は最高の正指揮者を得た。
原田は、演奏後まず打楽器陣を立たせた。それが納得できる凄演だった。第1楽章のコーダのティンパニと大太鼓の破壊的な打音、シンバルの轟音。第2楽章の小太鼓の切れ味など。
次は金管そして木管全員。第2楽章で大活躍のクラリネットが最初かと予想したが、確かに木管群の優劣は全くつけようがない力演だった。金管の充実ぶりもすごかった。特にトランペット。次はチェロ陣、第2楽章の第1楽章第1主題の再現の艶やかな合奏。それからコントラバス、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリン。今日の東響の弦は張りがあった。最後にハープとピアノの順で立たせた。
原田慶太楼と東京交響楽団は今後プロコフィエフを定期的にとりあげると聞いたが、どのコンサートも聴き逃せない。
原田慶太楼©Claudia Hersher 鐵百合奈©井村重人
新日本フィル ハイドン交響曲全曲ツィクルス 公演記録
大野和士 東京都交響楽団 矢部達哉(ヴァイオリン) 宮田大(チェロ) 小山実稚恵(ピアノ)
(9月16日・サントリーホール)
プログラム:
ベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲 ハ長調 Op. 56
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 Op. 55 「英雄」
「矢部達哉・都響コンサートマスター30周年記念」公演として、都響初の生配信もされたコンサート。
矢部がコンサートマスターとしてデビューをした演奏会(1990年9月8日)で都響「指揮者」のポストに就いた現音楽監督の大野和士が共演。共に歩んだ二人に加え、小山実稚恵も大野と藝大時代からの旧知の仲。祝祭的なコンサートとなった。
ベートーヴェン《三重協奏曲》は名演!
チェロが主役とも言われるこの作品。宮田大のチェロは、スケールが大きく、風格もあり、艶やかな美音で、終始好調だった。特に第1楽章展開部冒頭のチェロによる第1主題の再現の弱音が絶妙だった。
作品では、目立たないとされるピアノの小山実稚恵が、力強く瑞々しい響きで大きな存在感を示した。
コンサートの主役、ヴァイオリンの矢部達哉は、いつもながらの美しい音だったが、第2楽章まで、もうひとつ燃えるものが感じられなかった。しかし、第3楽章に入ると宮田とのやりとりが熱気をおび、小山も加わったコーダでは、完全燃焼の演奏を行った。
結果的に、この作品におけるソリストの優劣はなくなり、全く対等の存在と思われる破格の三重奏が生まれた。大野、都響の演奏は、内声部の充実、全員の集中力が素晴らしく、見事な出来映えだった。
後半の《英雄》は、矢部がコンサートマスターとして燕尾服に着替えて再び登場すると、聴衆から大きな拍手が巻き起こった。
大野の指揮は、過去聴いた中でも、最も緊密で集中力に満ちたものの一つだった。都響も全身全霊で応え、演奏としての完成度は極限まで高められていた。
特に、第2楽章「葬送行進曲」展開部の悲劇的なフーガの悲痛さと緊迫感、引き締まった響きは、全体の中でも最大の高みに達していた。
ただ、私自身はこの部分以外に心に響いて来るものが少なかった。木管、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンの内声部も充実しており、第1ヴァイオリンの響きも磨き抜かれ、オーボエ、クラリネット、フルートのソロも美しいなど、緊張感と集中が最後まで途切れることのない名演にもかかわらず、感動に至らないのは不思議な気持ちだった。
ひとつ推測するのは、大野和士は聴き手にこう聴かせよう、こう感情移入してください、という意図があまりないのかもしれない、という点だ。ひたすら、音楽に邁進することに集中しており、その先は聴き手が聴きとってほしい、感じてほしいと、いうことなのかもしれない。
効果を狙うのではなく、音楽の深い部分に向かうということだと思うが、しかし、その結果が、私にはよくわからなかった。
大野和士との相性と言っては身も蓋もないが。
写真:©東京都交響楽団
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」~庭師は見た!~ 井上道義指揮 野田秀樹演出
(9月18日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
「演劇とオペラの融合」。それが、2015年の再演となる今回の舞台を見た感想だ。
両者はお互いにうまく絡み合い、全体としてよくできた舞台だった。ただ、音楽面では違和感もあった。
舞台は長崎に設定され、庭師アントニ男が、登場人物兼語り部として進行役を務める。時代は黒船の時代、ところは長崎、港が見える丘。そこに伯爵と伯爵夫人を乗せた船がやってくる場面から始まる。
伯爵はロシア出身で日本を拠点とするヴィタリ・ユシュマノフ。伯爵夫人は、ドイツ人と日本人の間に生まれたドルニオク綾乃。他は全て日本の歌手たち。
声楽アンサンブルの他に、演劇アンサンブル、それにダンスも加わる。
原則、日本人は日本語の歌とレチタティーヴォ、セリフ。伯爵と伯爵夫人はイタリア語。海外の歌手と日本の歌手がからむ場合は、日本の歌手もイタリア語になったり、また日本語に戻ったり、二つの言葉が入り交じる複雑な構造となっていた。
イタリア語だけになると、とたんに音楽の流れが良くなり、いかにもモーツァルトの音楽を感じさせ、日本語となると、急に演劇的な雰囲気となり、音楽が後ろに下がる。
言葉と音楽の一体感が少なくなる点は、昨年の井上道義と演出・振付家の森山開次が組んだ、全曲日本語上演の《ドン・ジョヴァンニ》の時も感じた。
ただ、三重唱以上になると、その違和感は少なくなり、音楽として楽しむことができたのは、言葉が重なり良く聞き取れないためだろう。
日本語が入る上演は、井上の指揮にも影響を与えたのではないだろうか。イタリア語にあるアクセント、切れ味はモーツァルトの音楽と表裏一体となっており、そこに日本語が入ることで、その明快さがあいまいになる。さらに、井上の指揮自体も、レガートで横に流れていく。アクセントがあいまいで、モーツァルトの切れ味とスピード感が余り感じられず、響きも混濁しがちだった。
むしろ、チェンバロ、コレペティトゥールの服部容子が井上道義の指揮をモニターで確認しながら、常時舞台に向かい、歌手陣に適切な合図や音楽を伝えていたのが印象的だった。
演劇的な面は、奈落を効果的に使い、また小部屋に見立てたドアがついた長方形の箱を徹底的に使うなどの工夫が見られた。
歌舞伎の拍子木(ツケ)の代わりに、庭師の植木ばさみに見立てた棒を上下に動かして床を叩き、歌舞伎の見得や、あるいは人形遣い役の演劇アンサンブルとともに、人形浄瑠璃的な所作を歌手が演じるなど、さまざまな演出がなされた。
そうした手法の数々は、驚くような意外性はないが、新鮮さは感じられた。
歌手は、全体に好調。特にスザ女(スザンナ)の小林沙羅が良く、ケルビーノの村松稔之が美しいカウンターテノールを聴かせた。
アルマヴィーヴァ伯爵のヴィタリ・ユシュマノフと、フィガ郎(フィガロ)の大山大輔も安定していた。アルマヴィーヴァ伯爵夫人のドルニオク綾乃は、表情がやや単調に思えた。
全員の良く通るセリフや歌唱はミューザの音響の良さを再認識させた。
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指揮・総監督:井上道義
演出:野田秀樹
アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィタリ・ユシュマノフ*
アルマヴィーヴァ伯爵夫人:ドルニオク綾乃*
スザ女(スザンナ):小林沙羅
フィガ郎(フィガロ):大山大輔
ケルビーノ:村松稔之*
マルチェ里奈(マルチェリーナ):森山京子
バルト郎(ドン・バルトロ):三戸大久
走り男(バジリオ):黒田大介
狂っちゃ男(クルツィオ):三浦大喜
バルバ里奈(バルバリーナ):コロンえりか
庭師アントニ男(アントニオ):廣川三憲
花娘:藤井玲南、中川郁文
声楽アンサンブル:藤井玲南、中川郁文、増田 弓、新後閑 大介、平本英一、東 玄彦
演劇アンサンブル:川原田樹、菊沢将憲、近藤彩香、佐々木富貴子、末冨真由、花島令、上村聡、的場祐太
合唱:ザ・オペラ・クワイア
管弦楽:東京交響楽団
スタッフ:副指揮&合唱指揮:辻博之、
チェンバロ、コレペティトゥール:服部容⼦、
演出助⼿:垂⽔詩織
舞台監督:酒井健
美術︓堀尾幸男(HORIO⼯房)
衣裳︓ひびのこづえ
照明︓ファクター
⾳響︓⽯丸耕⼀
(全4幕/日本語字幕/イタリア語[一部日本語]上演/2015年制作)
写真©ミューザ川崎シンフォニーホール(2015.06.15青柳聡)
下野竜也 N響 N響ホルン・セクション (9月23日・サントリーホール)
昨日は下野竜也N響@サントリーホール。N響94年の歴史の中、22年ぶり三回目の演奏となるシューマン「4本のホルンのための協奏曲」が聴きものでした。
詳しくは、「音楽の友」コンサート・レヴューに書きます。
終演後、会場に来ていた鈴木優人さんから、お声をかけていただき、うれしかった。
高関健 東京シティ・フィル 福本茉莉(オルガン)巨大なオルガンと管弦楽の協奏曲
(9月26日土曜日 ・東京オペラシティコンサートホール)
バッハ(エルガー編):幻想曲とフーガ ハ短調
ジョンゲン:オルガンと管弦楽のための協奏的交響曲 作品81
フランク:交響曲 ニ短調 M.48
高関健はプレトークで、『自粛後初めて予定通りの日程、曲目で開催できた。プログラムもちゃんと印刷された』と感慨深けに話した。
今日のコンサートのテーマは「オルガン」。バッハのオルガン曲BWV537をエルガーが管弦楽のために編曲したもの、フランクと同じベルギー、リエージュ生まれのジョンゲンの巨大なオルガンと管弦楽のための協奏曲、そして、オルガニストでもあったフランクの交響曲。
バッハ(エルガー編)「幻想曲とフーガ」は、トロンボーンのトリルや、大太鼓、小太鼓、シンバルのド派手な盛り上げがやり過ぎ感一杯で、高関が初めてスコアを見たとき笑ってしまったというのも分かる。
続いて、オルガンの福本茉莉をソリストとするジョセフ・ジョンケン(1873-1953)の「オルガンと管弦楽のための協奏的交響曲」が、大音量で演奏された。「競争的交響曲」と言えるほど、オルガンは、ある時は管弦楽と拮抗し、ある時は管弦楽の一員として、またもうひとつのオーケストラとなる。オルガンは、最初から最後まで、ほぼ弾き通し。
フィラデルフィアの「ワナメーカー」(後のメイシーズ)というデパートの原形となったデパート内に設置された巨大オルガンのために書かれた。
ジョンケンに依頼したのはオーナーのロッドマン・ワナメーカー。オルガンは、セントルイスの万博で使われたものを移築したもので、高関のプレトークでは、7階分のフロア吹き抜けの壁一面に設置され、その高さはオペラシティコンサートホールの天井のてっぺんくらいまであるという。
youtubeの映像で見ると、もっと高さがあるように見える。パイプの数は2万数千本。
6段鍵盤。毎年クリスマスの時期に弾かれるオルガンはフィラデルフィアの名物となっている。
https://www.youtube.com/watch?v=98KYMpBx9og
ワナメーカーはこのオルガンを使った初演は聴くことなく亡くなってしまい、1928年ブリュッセルで初演された。実際にこのオルガンを使っての演奏は、2008年フィラデルフィア管弦楽団によってなされたという。
4つの楽章からなる40分の大曲で、オペラシティのオルガンを堪能できた。第4楽章が最も華麗で、オルガンは16分音符を絶えず弾き続け、オーケストラは金管が全開。文字通り壮大なクライマックスをつくった。
高関と福本は、このコンサートの直前、9月20日に京都市交響楽団とも演奏しており、作品については二人とも知り尽くしている。そのため、福本の演奏は最初から最後まで、確信と自信に満ちており、堂々としていた。
後半はフランク「交響曲 ニ短調」。高関にとっては、プロとして初めて海外のオーケストラを指揮してギャラをもらった思い出の曲で、1981年、26歳の時、ノルウェーのベルゲンで指揮したとのこと。
高関の指揮は、先日のブルックナー「交響曲第8番」でも聴かせたように、しっかりとした構成感と、流れの良さがあり、循環主題をはじめとする各主題が明確に描かれた。特に、スケルツォを含む三部形式の第2楽章アレグレットが、4つの主題と、その組み合わせの入り組んだ構造が明解に処理され、イングリッシュ・ホルンのソロを始め、クラリネット、フルートがベストの演奏を聴かせた。
全体を通して、金管は健闘、ティンパニも要所を締め、チェロとコントラバスの低音弦が良く鳴っており、ヴァイオリン、ヴィオラもいつものように全力で弾き、熱い演奏となった。
欲を言えば、響きにもう少し濁りのない音色の美しさと、奥行きがあれば、さらに深みのある演奏になったのでは、と思う。
写真:福本茉莉©安井進 高関健©Masahide Sato
渡辺貞夫オーケストラ (9月29日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
ステージで演奏するのは2月以来、9か月ぶりという渡辺貞夫。アルト・サックスのプレイは87歳とは信じられないほど若々しく溌溂としており、フレーズの滑らかな連なりや、アドリブの腕が冴えていた。
トロンボーンの村田陽一が主な曲目の編曲を担当し、バンドリーダーも務めていた。
ゲイリー・マクファーランド作曲の「KITCH」から始まった前半では、2011年阪神淡路大震災の直後、被災された人々のために書いたバラード「I’M WITH YOU」が、メロディアスで温かみがあり、印象的だった。続けて、東日本大震災の後に書いた「WARM DAYS AHEAD(希望を持って)」がパワフルに演奏された。渡辺自身がマイ・フェイバリットという「EYE TOUCH」は、最初少し粗く感じられたバンドのアンサンブルがタイトになり、ビッグバンドならではの、グルーヴ感のあるダイナミックな演奏が展開された。
前半は、PAのヴォリュームが大き過ぎて、音が飽和してしまうことが気になった。後半1曲目「CYCLING」は、その音がぐっとバランスが良くなり、ほっとしたのも束の間、渡辺が他のプレイヤーのソロの最中に、ステージ下手袖に下がり係員になにやら話している。演奏後『前半は音が重くてみんな苦労した。後半は軽くしてもらったが、今度は軽すぎるので、またもとに戻してもらった。このホールは初めてだが、サントリーホールと較べてデッドだね。』と言うので、思わず絶句!ミューザ川崎がデッドとは、どういうことだろう?たぶん切れの良い響きが、サントリーホールと較べてきつく感じられるのだろう、と私自身はナベサダの言葉を受け取った。
幸い、元に戻したという音は、前半よりはまとまっており、聴きやすくなった。もう40年も昔だが、カウント・ベイシーが名古屋の市民会館で公演したのを聴いたとき、どれだけバンドが咆哮しても、音のバランスが悪いということは皆無だったことを思い出した。もちろんスイング・バンドとモダンのビッグバンドでは、レパートリーも異なるが、会場がクラシック専用ホールであることを考えれば、もう少し生音に近いPAバランスをつくるべきだったのでは、と残念な気持ちだった。
バラードの「VITORIA」はトロンボーンの村田の作曲。しゃれたセンスでなかなかいい。
「SIMPATICO」はナベサダ得意のサンバのリズムで乗りの良い演奏だった。
「AIRY」はトランペットの奥村 晶と松嶋啓之がすさまじいバトルを繰り広げ、聴きごたえがあった。
ベニー・ゴルソンが書いた「WHAT AM I」は、ナベサダのバラードを堪能。最後は大ヒット曲「MY DEAR LIFE」をカルテットで演奏。バンド・メンバーがステージから去った後、ピアノの小野塚 晃とデュエットで「花は咲く」をしっとりと奏でた。
渡辺貞夫のプレイを聴くのは、40数年ぶりだろうか。岡崎の有名なジャズ愛好家、内田修先生の監修する名古屋のヤマハ・ジャズ・クラブで聴いた記憶がある。もしそれが間違いなら、1968年か69年に同志社学生会館で、菊地雅章(p), 鈴木勲(b), 富樫雅彦(ds)のカルテットで聴いて以来、50年ぶりかもしれない。いや、1972年の合歓ジャズインに出演していたかもしれない、と思って調べたら、やはり1972年7月22日に渡辺貞夫ヤマハリハーサルオーケストラで出演していた。
このときは、チック・コリアもソロを弾く予定だったが、山下洋輔が例の肘打ち奏法で、ピアノの鍵盤を破壊してしまい、コリアが聴けたかどうか、記憶がない。おまけに台風接近で大雨と風で全身ずぶぬれになり、ひどい目にあった。一緒に行った岐阜のジャズ喫茶「Ghost(ゴースト)」の美人ママと友人にも申し訳なかった。
合歓ジャズインの歴史↓
http://smjx1969.starfree.jp/nemu-jazzinn.htm
ナベサダのプレイには、「花は咲く」で聴かせた日本人の情感と歌心があり、そこにバークレー音楽院以降、アメリカで身につけたジャズのテクニック、アドリブの技が加わっていると思う。海外のサックスプレイヤーとは一味違う味わいを今日改めて確認できた。
最後に、小言をひとこと。バンド唯一の女性プレイヤー、トロンボーンの山城純子が、バンド退場の際、毎回、男性陣の最後についていくのは、見ていて辛かった。座っている位置がバンドの一番上手であり、下手にひっこむとき最後になるのかもしれないが、レディ・ファーストの仕草が、男性プレイヤーにまったくないのには驚いた。
海外公演なら間違いなく、非難されるだろう。クラシックのオーケストラは、退場人数が多いため、いちいちレディ・ファーストでいくのは難しい。ビッグバンドも同じなので、全員の先頭とまでは言わないが、せめてトロンボーン・セクションの中だけでも、レディ・ファーストにしてほしかった。
パーソネル:
サクソフォン:渡辺貞夫
Sax Section 吉田 治 (lead as) 小池 修 (2nd ts) 近藤和彦 (3rd as) 竹野昌邦 (4th ts) 山本拓夫 (5th bs)
Trombone Section村田陽一 (lead tb) 辻 冬樹 (2nd tb) 奥村 晃 (3rd tb) 山城純子 (4th b-tb)
Trumpet Section西村 浩二 (lead tp) 奥村 晶 (2nd tp) 佐久間勲 (3rd tp)
松嶋啓之 (4th tp)
Rhythm Section小野塚 晃 (piano) 粟谷 巧 (bass) 竹村一哲 (drums)
セット・リスト
●1st SET KITCH/TOKYO DATING/HIP WALK/EPISODE/I’M WITH YOU/ WARM DAYS AHEAD/EYE TOUCH/TEMBEA
●2nd SET CYCLING/TREE TOPS/VITORIA/SIMPATICO/AIRY/WHAT AM I/NOT QUITE A SAMBA/SEVENTHHIGH/MY DEAR LIFE/花は咲く(With Piano)
大友直人 東京交響楽団 嘉目真木子(ソプラノ) 錦織健(テノール)
(10月3日・東京オペラシティコンサートホール)
千住 明(作曲)/松本 隆(作詞):詩篇交響曲「源氏物語」 (2008)
Ⅰ序曲 Ⅱ桐壺(T) Ⅲ夕顔(S) Ⅳ若紫(T) Ⅴ葵上(S) Ⅵ朧月夜(T) Ⅶ須磨(S/T)
Ⅷ明石(S) Ⅸ幻(S/T) Ⅹ終曲
シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 op.43
市松模様の配置ではない従来通りの客席に座るのは、約7ヵ月ぶり。懐かしい風景に出会ったような感覚だった。みんなで一緒に音楽を聴くという気持ちが蘇った。少し窮屈だけれど、人と人が触れ合う温かさはやはりいいものだ。
千住 明(作曲)、松本 隆(作詞)の「詩篇交響曲《源氏物語》」は、2008年大友直人指揮京都市交響楽団で初演された作品の再演。紫の上と光源氏が対話するⅦ須磨と、Ⅸ幻以外は、ソプラノ、テノールがそれぞれ物語を歌う。
千住の音楽は、大河ドラマか日本映画のサウンドトラックのように、美しい旋律とドラマティックな音楽が耳に心地よい。松本隆の口語体の歌詞もわかりやすく、古典の世界に自然に入って行けた。
ソプラノの嘉目真木子は真っ白なドレス、テノールの錦織健も白のジャケットで登場した。
嘉目の歌唱は、スケールが大きく、立派なものだったが、もう少し可憐さや儚さを醸し出しても良かったように思う。
錦織は、光源氏に合っていると思ったが、歌い方がミュージカル的にも感じた。光源氏の持つ悲しみの感情を、もっと深くえぐり出すような歌唱であってほしかった。
この作品は、エンタテインメント性があるだけではなく、実は奥が深いのではないか、とも感じた。
大友直人は初演も指揮しており、作品は充分把握しているはずだが、過剰なほどの打楽器の炸裂や、金管の咆哮など、全体的に演奏が粗く感じられた。
後半のシベリウス「交響曲第2番」にも、その粗さが引き継がれてしまった。
弦の響きがとげとげしく、金管の咆哮も行き過ぎ、クライマックスへの道程が強引に感じられた。
大友直人のシベリウスの2番は、昨年7月に聴いた、彼が私財を投げうってまで力を入れている「ミュージック・マスター・コース・ジャパン ヨコハマ2019 オーケストラ・コンサート」での演奏の方が、艶やかで品格のある美しい響きがあった。
ただ、その粗さが第2楽章では功を奏し、荒々しい野性的な演奏となっていた。
第3楽章から第4楽章への移行も、盛り上がりが先走り過ぎ、オーバーヒート気味な演奏となり、最後のロ短調からニ長調への輝かしい結末が実質を伴わず、咆哮するだけに終わってしまったのが残念だった。
大友直人©Rowland Kirishima 錦織健©Hirotake Ooyagi
鈴木優人 読売日本交響楽団 第49回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
(10月6日・サントリーホール)
メシアン《峡谷から星たちへ》
児玉 桃(ピアノ)
日橋辰朗(ホルン)
西久保友広(シロリンバ)
野本洋介(グロッケンシュピール)
読響が2017年度のサントリー音楽賞を受賞した記念のコンサート。
受賞にあたっては、カンブルランとのメシアン《アッシジの聖フランチェスコ》の空前の大成功をはじめ、オペラからマーラー、ブルックナーの大曲まで、幅広いジャンルで活躍した読響の活動全体が評価された。
本来はカンブルラン指揮で、メシアンの《我らの主イエス・キリストの変容》を披露する予定だったが、オーケストラと合唱による大編成のため、新型コロナ感染症対策から、曲目がメシアン《峡谷から星たちへ》へと変更となり、またカンブルランも来日できなくなったため、読響の指揮者/クリエイティブ・パートナーの鈴木優人が指揮台に立った。
結論から言えば、バッハから現代音楽までをレパートリーとする鈴木優人の面目躍如たる鮮やかな指揮と、メシアンの音楽語法を完全にマスターしている読響の実力、そして何よりもソリストの妙技が一体となり、素晴らしい名演となった。
鈴木はモダン・オーケストラでのデビューを、2011年に東京交響楽団を指揮した、メシアンの《トゥーランガリラ交響曲》で飾っており、メシアンの語法にも通じていることから、この代役は大正解だった。
ソリストの目覚ましい演奏も成功の原動力となった。
まず、児玉桃の色彩感と躍動感のあるピアノが様々な鳥の鳴き声を見事に描いた。
第4曲「マミジロツグミヒタキ」(アフリカ南東部の鳥で素晴らしい歌い手)のピアノ・ソロと、第9曲「マネシツグミ」(合衆国で最も知られている鳥。歌がうまく変化に富む)での11分以上の長きに渡って続くソロが圧巻だった。
ホルン首席の日橋辰朗の演奏は、会場の拍手を最も多く受けていた。
第6曲「星々の間を翔ける呼び声」は、7分間ホルン・ソロを続ける難曲。
日橋は、ゲシュトップト奏法(手を深く挿入し開口部にかぶせ、通常の音より半音から全音低いくぐもった音を得る)によるトリルや、フラッターツンゲ(舌の細かい動きにより音を震わせる管楽器の特殊奏法)で響きを消して長く伸ばし、その上で高音を変えるなど、ホルンの特殊奏法のオンパレードの曲を、余裕をもって完璧に吹いた。
このほかにも、鳥の声を真似るなどホルンにとって難しい個所が、全曲を通して続出するが、日橋はそれらすべてを楽々と(相当な練習の賜物だが)、クリアした。
読響の打楽器奏者、シロリンバの西久保友広とグロッケンシュピールの野本洋介は、鳥の素早い鳴き声など、作品全体にちりばめられた課題を、これまた完璧にこなし、2人とも目覚ましい演奏を披露した。
カンブルランと《アッシジの聖フランチェスコ》他で、メシアンの作品を多数手がけてきた読響の楽員には、メシアンの音楽語法が深く浸透しており、特に、風の音を作るエオリフォンと大地の音を作るジュオフォンをはじめ、ゴング、チューブラーベル、タムタム、ウッドブロックなど打楽器群が切れ味の良い演奏を展開、3管編成の金管はコラールでメシアンの輝かしい音を再現し、4管編成の木管も特殊奏法を含め、立派な演奏だった。13名という小編成の弦楽器は、個々人にフラジオレットやコルレーニョなど、特殊奏法が要求されるが、こちらも完璧にこなしていた。
これらに加え、5日間に渡る綿密なリハーサルが、今回の名演に結実した。
作品のハイライトの一つ、第5曲「シーダー・ブレイクスと畏怖の贈り物」での、全管弦楽の総奏は、メシアンが合衆国ユタ州にあるシーダー・ブレイクスの驚異の自然を見て感じた畏怖を見事に描いた。
第7曲「ブライスキャニオンと赤褐色の岩」もまた、ユタ州にあるブライスキャニオンの自然の驚異を描いているが、ここでは木管と金管の響きや、トロンボーントタムタムの持続音で岩々の色彩が鮮やかに描かれた。
(シーダー・ブレイクスもブライスキャニオンもネット上で検索すれば、その驚異の光景が多数見られるので、ぜひご覧ください。)
演奏のピークは、第11曲「ハワイツグミ、ソウシチョウ、ハワイヒタキ、シキチョウ」にあった。
ホルンのソロの繰り返しの間に、様々な鳥の鳴き声が、ピアノ、金管、木管、打楽器、弦が総動員され、めくるめく色彩感とともに描かれていく。
鈴木優人と読響も、ここにきて完全にメシアンの世界と一体となり、メシアンの音世界がホール全体に響き渡った。それはメシアンの音楽がもたらす恍惚と喜びであり、文字通り陶然となって聴き入った。
終曲「ザイオンパークと天の都」は、コーダの光り輝くコラールの陶酔感がもう少しあれば、とも思ったが、13名という弦楽器の少なさと、ソーシャルディスタンスで奏者間を広くしていることで、音の密度が薄くなったのかもしれない。
カンブルランの代役を見事果たした鈴木優人と、素晴らしい演奏を展開したソリスト4人に対しては、ステージからオーケストラが去った後も拍手が止まず、5人そろってのカーテンコールとなった。
鈴木優人©Marco Borggreve 児玉桃©Marco Borggreve
熊倉優 新日本フィル 竹澤恭子(ヴァイオリン)(10月8日・サントリーホール)
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77
チャイコフスキー:交響曲第4番 へ短調 op.36
ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」での竹澤恭子のヴァイオリンは、いつもながらの骨格のがっしりとした堂々とした演奏。これに対して、熊倉優(まさる)はこの協奏曲を指揮するのが初めてではないかと思われるように自信が感じられず、主張の少ないバックに終始した。竹澤に合わせることに神経が行っており、対話したりソロと一体となる場面があまりなかった。たとえば、第1楽章の終結部、ヴァイオリンがカデンツァを奏した後に第1主題をしっとりと奏でる箇所は、オーケストラにも同じような美しい表情が求められるが、そうした深みは感じられなかった。
竹澤にとって、熊倉の指揮は少し歯がゆかったのではないだろうか。アンコールは、J.S.バッハ「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」より「サラバンド」を静かに奏でた。
オーボエは1985年から90年まで新日本フィルの首席だった小畑善昭が今日もゲストで入っていた。第2楽章のソロは渋い味わいだが、艶やかさや瑞々しさはあまりないため、ソロに酔うことはなかった。
前半に較べ、後半のチャイコフスキー「交響曲第4番」は熊倉の良さが出ていた。
第4楽章が出色で、ホルンの胸のすくようなダイナミックな主題の咆哮をはじめ、どれだけ強奏しても響きが濁らないしなやかで、立体感のある演奏が新鮮だった。
シンコペーションしながら全楽器が雪崩打つコーダも、オーケストラから自発的な熱気を引き出して見事だった。
一方で、第1楽章の第2主題や、第2楽章のような緩やかな部分は、テンポを落として、まるでワーグナーの無限旋律のように、なだらかな曲線で息の長い旋律を歌わせた。聴き手は、メランコリックでどこに向かうのか不安な気持ちにさせられる。
熊倉がこうしたテンポや表情をとったのは、チャイコフスキーがパトロンのフォン・メック夫人宛に書いた手紙を参考にしたのかもしれない。
第1楽章のクラリネットの第2主題に続く、127小節からのなだらかなフルートとオーボエの旋律について、チャイコフスキーは『おお、歓喜よ。少なくとも甘い、そしてやさしい幻想があらわれました。なにか、幸福な輝かしい人間の形象がやってきて、どこかへさしまねいています』とメック夫人に書いている。
この旋律はそのあとも長く続くが、間もなく「運命の動機」にさえぎられてしまう。
第2楽章についてもチャイコフスキーは、長い説明をメック夫人あて書いており、そこに書かれた言葉を拾い出せば、熊倉の意図と重なる。
いわく「夕暮れにあらわれるメランコリー」「生命は倦み疲れた」「過去にひたることは悲しくもあり、何か甘い」など。
熊倉のメランコリックでどこに向かうのか不安な気持ちにさせられる表現は、作曲家の意図を忠実に汲んだものだったと思えば合点がいく。
熊倉優の指揮を聴くのは、一昨年、フェスタサマーミューザでN響を指揮したショスタコーヴィチ「交響曲第10番」以来。
そのときのレヴューは「音楽の友」にこう書いた。
『N響は熊倉を盛り立てようと最初から積極的な演奏を展開したが、特にショスタコーヴィチ「交響曲第10番」は両者の信頼の深さを示す名演だった。(中略)
若いにもかかわらず百戦錬磨のN響からこれほど熱い演奏を引き出す才能には驚嘆のほかない。熊倉優の今後に大いに期待したい。』
この時は、N響メンバーがアシスタント指揮者の熊倉を応援しようと全力の演奏を行い、熊倉はずいぶん助けられていた。
今回は新日本フィルの定期演奏会デビューであり、熊倉は自力でこの演奏を成し遂げたと言える。もちろん、新日本フィルの楽員も全力で演奏して熊倉を盛り上げており、演奏後の彼への楽員の温かなまなざしが印象的だった。
楽員から好かれる性格も指揮者にとっては、重要な要素だ。楽員のやる気を引き出す熊倉の今後に改めて期待したい。