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Channel: ベイのコンサート日記
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尾高忠明 清水和音(ピアノ) 新日本フィル (7月11日・すみだトリフォニーホール)

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コンサート終演後マイクを持った尾高忠明が登場。『新日本フィルがすみだトリフォニーホールに戻ってまいりました』とあいさつ。『ソーシャルディスタンスでアンサンブルが難しい中2日間でここまで来ました。僕たちにとってホールが楽器。お客様の温かい拍手に力をもらいました。どんなに素晴らしい装置よりも生音に勝るものはない。このホールの中に身を置くことが大事。ブラヴォが聴けないのは残念ですが、盛大にブラヴォを叫べる機会が早く来るまでがんばりましょう』と聴衆に語り掛けると盛大な拍手が巻き起こった。
 

今日のプログラムは、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」とブラームス「交響曲第1番」というドイツ音楽の中核をなす重厚なもの。

《皇帝》を弾いた清水和音は、力強いタッチ、正確な指使い、立ち上がりの良い音で、この曲のイメージ通りの演奏だったが、もうひとつ中に入っていく表情の深さや、強いメッセージが感じられなかったのは、自粛で演奏機会がなく、持てる力を充分に発揮するまでにはまだ時間がかかるためかもしれない。尾高&新日本フィルは清水と一体となり、充実した演奏を聴かせてくれた。

 

ブラームス「交響曲第1番」は前日に広上淳一指揮日本フィルで聴いたばかり。編成も同じで12-10-8-6-5という12型。

 

広上・日本フィルは、最初のうちは慣らし運転のように慎重に進んでいき、それが徐々に熱を帯び、最後はオーケストラを開放し爆発させ、熱狂的なクライマックスをつくっていた。

一方の尾高・新日本フィルは、前日にも演奏していること、ホームグラウンドのホールであることもあり、アンサンブルの緻密さでは日本フィルよりも一歩抜きんでていた。

また、第4楽章コーダのピウ・アレグロでは、熱狂と構成とのバランスをとっていたように思えた。両者の違いが感じられて、聴き比べは興味深いものがあった。

以下はトリビア的な話。

その1:先週2日(木)のサントリー定期では、聴衆の拍手の中登場した楽員は椅子に腰かけたままだったが、立ってお客様の拍手を受けたほうがいいのではと、ブログに書いた。

それを関係者が読んだのか、他からも指摘があったのか、今日は客席を向き拍手を受けていた。

 

その2:チェロの首席に『葵トリオ(Aoi Trio )』の一員として、第67回ARDミュンヘン国際コンクールピアノ三重奏部門で第1位を受賞し、話題となっている伊藤裕が客演で入っていた。

 

 

 

 

 


都響も4ヶ月ぶりに有観客公演を再開 「都響スペシャル2020」 

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(7月12日・サントリーホール)

プログラム:
コープランド:市民のためのファンファーレ

ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 op.21

デュカス:舞踊詩《ラ・ペリ》より「ファンファーレ」

プロコフィエフ:交響曲第1番 ニ長調 op.25《古典交響曲》

(休憩なし)
 

都響も4ヶ月ぶりに有観客公演を再開した。「都響スペシャル2020」と題されたコンサートは定期会員とTMSOサポーター限定。座席は前後左右1席空け、P席、LA、LB席は空けていた。また1階は4列目までは空席とした。

プログラムには、楽員直筆のメッセージ(私が手にしたのはヴィオラの小島綾子さん)と、来場されたお客様へのお礼の言葉が印刷されたカードが挟まれていた。定期会員とサポーターにとって、うれしいプレゼントになったと思う。

 

今日のプログラムの意図は、2曲のファンファーレがコロナに傷つき疲れた人々を励ますエール、二つの交響曲第1番はウィズ・コロナの地点からの出発点ということだろうか。ベートーヴェンとプロコフィエフは楽器編成が全く同じという点も考慮されたのだろう。


金管と打楽器奏者が登場すると盛んな拍手が起こる。続いて大野和士が登場。

コープランド「市民のためのファンファーレ」の冒頭、タムタムと大太鼓、ティンパニの轟音がホールに鳴り響く。続いて力強い金管が続いた。


ベートーヴェン「交響曲第1番」は12-10-8-6-4の編成。指揮台のまえには、指揮者からの飛沫防止のためと思われるアクリル板が2つ設置されていた。

コンサートマスターは矢部達哉と四方恭子、ヴィオラは鈴木学と店村眞積のそれぞれツートップ。チェロ首席に元神奈川フィル首席の山本裕康が入っていた。

 

ベートーヴェンはヴィブラートをかけた男性的で重厚な演奏。熱気と活気に満ちており、ぐいぐいと進む力強いものだが、こうしたスタイルのベートーヴェンを最近余り聴かないので、正直なところ少し昔に戻ったような感覚があった。

 

 

デュカス:舞踊詩《ラ・ペリ》より「ファンファーレ」は、奏者たちがコープランドで肩の力が抜けたためか、響きも柔軟性を増し、金管が気持ちよく鳴り響いた。

 

プロコフィエフの《古典交響曲》も、演奏の特徴はベートーヴェンと同じ。スピード感や切れ味はあるが、重心が低い分厚い響きがする分だけ、この作品の持つ颯爽とした機動性や軽快さは減じられていたように思えた。

 

今日の公演は、都響スペシャル2020チャリティ配信(収益金は「守ろう東京・新型コロナ対策医療支援寄付金」に寄付される)として、7月29日(水)10:00から9月30日(水)23:59まで、チケットぴあが運営する「PIA LIVE STREAM」で、1000円で期間中何度でも視聴できる。
詳しくは下記をご参照ください。今はまだ告知はないようです。

https://t.pia.jp/pia/events/pialivestream/
 

 

 

 

原田慶太楼 読売日本交響楽団 特別演奏会 ~孤独を乗り越え、進め!~

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(7月14日・サントリーホール)
コロナ禍と長引く梅雨を吹き飛ばすように明るく爽快で、生命力がみなぎる演奏に、エネルギーと元気をいっぱいもらった。

勢いだけではなく、繊細で奥行きのある音楽を作り出す持つ原田慶太楼の音楽性の深さを知らしめてくれるコンサートでもあった。

 

1曲目コープランド「市民のためのファンファーレ」は、つい2日前大野和士都響で聴いたばかり。原田と読響は、打楽器の切れ味のあるリズム、金管の輝きに満ちた音で、胸のすくような演奏を聴かせ、パワフルなアメリカのオーケストラを思わせた。

 

舞台転換の間に、マイクを持った原田が登場、コープランドが1966年に読響を指揮した時の写真パネルを持ちながらトークをした。

 

『「市民のためのファンファーレ」はグーセンス(*シンシナティ交響楽団の指揮者)のファンファーレ・プロジェクト(*17人のアメリカ人作曲家にファンファーレを委嘱)で作曲された。
自分もシンシナティ交響楽団に(*アソシエート・コンダクターとして)4年から5年いたので、自筆スコアも見ることができた。
読響との縁もあり、今日はコープランドの魂に見守られているような気持ちがする。

 

「静かな都会」のノスタルジックな響きのトランペットは、主人公が自分の人生を振り返る様子を表している。
コープランドは最初トランペットとアルト・サックス、弦のために書いたが、トランペットが10分吹き続けるのはきついのと、高音でやり取りがあるのでイングリッシュ・ホルンにした。
主人公がコロナで人影の消えたニューヨークの夜の街を歩いていると想像してみてください。
最後にトランペットとイングリッシュ・ホルンがエコーする高音部に意味があり、イングリッシュ・ホルンは同意しているのか、馬鹿にしているのか、様々な解釈がある。音楽は生き物であり、いろいろな解釈があっていい。

ハイドンは読響のメンバーとも相談して、楽しい仕掛けがあるので楽しみにしてください。』
*筆者注

 

 

「静かな都会」はトランペットの辻本憲一、イングリッシュ・ホルンの北村貴子がソリスト。読響の弦はコンサートマスター日下紗矢子以下、6-6-4-4-3の編成。

コープランドが音楽をつけたアーウィン・ショーの戯曲は、ユダヤ人少年が富を求めて金持ちと結婚し、百貨店の社長に上り詰める。兄が吹くトランペットが主人公に反省を促すというストーリー。イングリッシュ・ホルンはホームレスを表すとのこと。

 

辻本のトランペットは、ジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスやクリフォード・ブラウンを思わせる屹立した孤高の音で、夜のニューヨークにこだまする哀調に満ちた響きを見事に表現した。

イングリッシュ・ホルンの北村貴子は、女性らしい優しさが感じられ、二人のやりとりはカップルの会話を思わせた。

 

原田は、日下が入り透明な響きとなった読響の弦から、奥行きと深みのある音楽を作り出し、二人のソロを支えた。

この曲を生で聴いたのは初めてだが、作品の本質に迫る見事な演奏だと思った。

 

ハイドン「交響曲第100番《軍隊》」はエンタテインメントのように明るく楽しい。読響の音が洗練され、艶があり絹のよう。リズムが良く、音楽が常に勢いよく流れており、滑らかにつながっていく。読響の楽員は原田の指揮のもと、ノリノリで演奏していた。

 

《軍隊》の名前の由来となった第2楽章のトライアングル、シンバル、大太鼓が活躍する部分では、シンバルが左右異なるサイズを使ったり、大太鼓のボディをスティックで叩くなどの、工夫が見られた。

 

第3楽章メヌエットは、レガートがかかった三拍子で、川が流れていくように滑らか。こういう解釈は初めて聴いたので新鮮だった。

 

第4楽章では、最後の方でトライアングル、シンバル、大太鼓が再び加わるが、舞台下手から登場した奏者が、音楽に合わせステージ上を移動して演奏した。
この部分は、ヤンソンスがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した映像にあるように、打楽器隊が客席後方から現れる演出もあるが、今回は濃厚接触を避けるため採用しなかったのかもしれない。

 

アンコールは、シューベルト《軍隊行進曲》。これも爽やかで楽しい。ヴァイオリンにポルタメントをかけさせたのも面白かった。

 

原田慶太楼の指揮に接するのは、昨年フェスタサマーミューザでN響と共演した時以来。その時もエネルギッシュで乗りの良い指揮に感心した。
来年4月からは東京交響楽団の正指揮者にも就任する。コンサートだけではなく、オペラ指揮者としても活躍しており、いつかオペラも聴いてみたい。これからも彼の指揮を聴くのが楽しみだ。

原田慶太楼©Claudia Hershner

 

 

 

ジョナサン・ノット映像指揮、東京交響楽団 大成功!

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ニコニコ生放送もあったのでご覧になった方も多いと思います。
ジョナサン・ノット映像指揮、東京交響楽団のドヴォルザーク「交響曲第8番」、指揮台のあたりに置かれた4台のモニター(1台は客席向け)に流れるノットの指揮録画を見てオーケストラが演奏。
いったいどういうことになるのか、興味津々、不安もいくばくかでしたが、結果は大成功だったと思います。
詳しくは「音楽の友」9月号Rondoのページにレポートします。

太田 弦 新日本フィル 田部京子(ピアノ)(7月17日・すみだトリフォニーホール)

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上岡敏之とアンヌ・ケフェレックがコロナ禍で来日不可能となり、プログラムはそのままで太田 弦と田部京子が登場した。コンサートマスターは崔(チェ)文洙。

 

ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」は、田部京子のピアノが素晴らしかった。粒立ちのよい瑞々しい音が宝石を連ねるように奏でられる。明快で軽やか、切れ味もある演奏は、ベートーヴェン初期のピアノ協奏曲にふさわしい様式感があった。

 

第1楽章のカデンツァは、ベートーヴェンが書いた3種類(61小節、31小節、129小節)のうち、最も長大で難易度が高い129小節を使って、圧巻の印象を与えた。実演でこのカデンツァを聴くのは初めてだ。

 

太田 弦の指揮は、田部に合せる無難なものだったが、主張するものは少なく、やや平板だった。直前の代役であること、まだ若いため実演の回数が少ないこともあるのだろう。

太田は飛沫防止のフェイスシールド、田部も新日本フィルの管楽器以外の楽員も、マスクをつけての演奏は大変だったろうと思う。

 

シューベルト「交響曲第8番《グレイト》」は、ベートーヴェンに較べると太田 弦のやりたいこと、個性が感じられた。具体的には、思い切りの良さ、快適なリズム、エネルギッシュなスケルツォの表情、などがあげられる。


序奏は旧全集では四分の四拍子だが、新全集ではアラ・プレーヴェ(二分の二拍子)になっており、太田もそれを踏襲して速めのテンポで進み、主部のアレグ・ノン・トロッポのコントラバスのリズムにスムーズにつないでいった。

 

序奏のリズムがそのまま全体に行き渡るように、太田は快適なテンポで進んだ。各楽章の提示部の繰り返しはなく、演奏時間は約50分だった。

 

太田の指揮で物足りなかったのは、シューベルトに欠かせない「歌うこと」「歌の表情」。たとえば、第2楽章の中間部、89小節目からのチェロが奏でる美しい旋律は、テンポを落としてでも、もっと歌って良かったのではないだろうか。

 

ベートーヴェンと同じく、準備期間の短さや実演経験から、今回多くを太田に臨むのは酷かもしれないが、思い切りの良さが太田の長所のひとつであり、さらに冒険をしていってほしいと願う。

太田 弦©Ai Ueda 田部京子©Akira Muto

 

 

 

佐渡 裕 東京フィルハーモニー交響楽団(7月17日・東京オペラシティ)

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定期的に東京フィルに客演する佐渡 裕のベートーヴェン・プログラム。

コンサートマスターは三浦章宏。トップサイドに近藤薫が座る。

 

序曲《コリオラン》は緊張感が充満する重心の低い分厚い音で始まる。この作品にふさわしい響きで、すぐに惹き込まれる。
素晴らしかったのはコリオランの母や妻を表すという第2主題。

序奏や第1主題の暗く重い響きが、突然晴れ渡るように温かく癒しに満ちた音楽が立ち上がってきた。

これまで佐渡 裕の指揮で心を動かされたことはあまりなかったが、ヨーロッパで活躍するようになり、音楽が深くなっていることに驚き、強い印象を受けた。

 

しかし、2曲目のベートーヴェン「交響曲第7番」は、7年前東京シティ・フィルを指揮したときの印象とほぼ同じだった。詳しくは、その時のブログをご覧いただきたい。
https://ameblo.jp/baybay22/entry-11473567950.html

 

違いは、オーケストラの音がより分厚く重くなり、逞しくなっていること。重戦車のようながっちりとした音で怒涛の如く進んでいくが、残念ながら私の心には何も響いてこなかった。

テンポ・ルバートもあり、決して勢いだけの演奏ではない。様々な考えや読み方が佐渡 裕にはあるに違いないが、今回もつかみ取れなかった。どこかに「きっかけ」があると思いながら聴いていたが、どうしても中に入って行けなかった。

 

これは相性というものなのか。《コリオラン》でできたことが交響曲でできないということはないはずで、そう簡単に結論づけられない。

また次の機会に、まっさらな気持ちで聴いてみたい。

追記:

プレコンサートで、さかはし矢波、首席の吉岡アカリ、神田勇哉によるフルート三重奏があり、チャイコフスキー《くるみ割り人形》から「葦笛の踊り」「花のワルツ」、ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ハチャトゥリアン《仮面舞踏会》より「ワルツ」が演奏された。
さかはしが、舞台袖に行き、佐渡 裕を招き入れる。佐渡はフルートを手にしてドヴォルザーク「ユモレスク」のリードを担当し吹いた。正直、他の三人よりかなりぎこちないが、佐渡のフルートを初めて聴けて楽しかった。

 

佐渡 裕©Takashi Iijima

昨日のフェスタサマーミューザ、オープニングコンサート「ほぼ日刊サマーミューザ」に掲載

フェスタサマーミューザKAWASAKI2020 広上淳一 NHK交響楽団

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(7月25日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
N響はコロナによる演奏中断後、NHKホールでの無観客、飛沫確認試演はあったが、有観客のコンサートは今日が初めてになる。

 

開演前に、室内楽コンサートがあり、ヴァイオリン森田昌弘、白石篤、チェロ宮坂拡志、コントラバス西山真二の四人で、ロッシーニ「弦楽のためのソナタ第1番ト長調」が演奏された。

高音と低音の対比がはっきりとしていて、森田のヴァイオリンは、コロラトゥーラの歌手が歌うように、次々に旋律を奏で、他の弦は、歌手を盛り上げるオーケストラのように伴奏にまわっていた。  

 

グリーグ「ホルベアの時代より」は 、8-7-6-4-2の弦。コンサートマスター篠崎史紀と、ヴィオラ首席の佐々木亮は、プルトに一人で座る。ソーシャルディスタンスの確保のため奏者間を空け、譜面台は一人一台ずつ使う。

 

広上はN響の弦からふくよかで温かみのある音を引き出した。奏者の間が広いため、ヴァイオリンが薄く感じるが、チェロの藤森亮一と藤村俊介、宮坂拡志、渡邊方子の4人が奏でる低弦が、信じられないほど分厚く、力強い響きを奏でることで、ぐっと全体の厚みが増してきた。

第5曲アリアの悲痛な表情が心に響いた。

 

弦はそのまま動かず、管、打楽器奏者が入場して、ベートーヴェン「交響曲第8番」が始まる。広上とN響の演奏は、第7番の人気の影に隠れ、全9曲の中で最も地味だと思われがちなこの作品の真の魅力を教えてくれるものだった。

 

広上はいつもの飄々とした指揮ぶりだが、隅々まで目配りがきいており、噛めば噛むほど奥が深く、温かい音楽をつくる。

 

第1楽章の弾ける勢いとともに、弦と木管のブレンドが絶妙で奥行きの深い音となる。

 

第2楽章のメトロノームを思わせるユーモアをきちんと感じさせてくれる演奏にはなかなか出会えないが、(真面目過ぎることが多い)広上にかかると、それが咄家のネタのように生き生きとして、面白く感じられる。

第3楽章メヌエットは、中間部トリオでの福川伸陽、石山直城のホルン二重奏がとにかく素晴らしい。

 

第4楽章は対位法が駆使された展開部の広上の見事な構成力に感嘆した。

 

広上が演奏後何度もN響の奏者を讃えたように、この演奏の成果にはN響の演奏能力の高さが大きく貢献していることは確かだろう。しかし、それを束ね、思う存分力を発揮させる広上の力量があればこそ、生まれた名演だったと思う。

 

アンコールにモーツァルト「歌劇《フィガロの結婚》序曲」が演奏された。

広上淳一©Greg Sailor

 

 

 


フェスタサマーミューザKAWASAKI2020  川瀬賢太郎 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

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(7月28日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
開演前に川瀬賢太郎がプレトーク。
『本来アイヴス、グラス、ドヴォルザークのプログラムだったが、前半が変わり、神奈川フィルを知るプログラムになった。
ドヴォルザーク「管楽セレナード」で管楽器セクション、バッハ「2つのヴァイオリンのための協奏曲」で弦楽、ドヴォルザーク「新世界より」でオケ全体を聴いていただく。
「新世界より」は普通12か14型の大きい編成だが、今日は10型。小さな編成だから見える新しさを聴いてほしい。
4ヶ月から5ヶ月にわたる自粛中、たくさん勉強できた。「新世界より」も自筆譜ファクシミリで勉強した。シンバルとかいつもとは違うので詳しい方はぜひ聴いてみてほしい。』

 

本番のドヴォルザーク「管楽セレナード」は、神奈川フィルの木管金管セクションにチェロとコントラバスが加わり、息のあった名演を聴かせた。川瀬は、第1楽章のリズムにメリハリをつけ、躍動感があった。素朴な民族調の第3楽章はのんびりとひなびた雰囲気があり和む。


バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」は、4-4-2-1-1の弦にチェンバロが入る。ゲストコンマスは千葉清加。神奈川フィルの二人のソロ・コンサートマスターがソリストで登場。首席の石田安尚が第1ヴァイオリン、﨑谷直人が第2ヴァイオリン。二人の音色の違いが興味深い。


ステレオタイプな言い方だが、石田が研ぎ澄まされた男性的な音であるのに対し、﨑谷は艶のある美音で女性的に感じた。
メンバー同士の演奏ということもあり、全員の息がよく合う。二人のソリストにからむオーケストラの響きが全く混濁しない。ヴィブラートを適宜かけた美しく艶やかなバッハだった。

 

石田泰尚と﨑谷直人のアンコールは、フォスター(山中淳史編)「金髪のジェニー」。それぞれの細やかな対旋律の動きがとても美しい。二人は定期的にデュオコンサートを開いており、この曲もレパートリーの一つだけあって、堂にいった演奏だった。

 

ドヴォルザーク「交響曲第9番《新世界より》」は、石田泰尚と﨑谷直人がツートップで入った。推進力にあふれる切れ味の良い演奏で、作品のシンフォニックな側面が良く出ていた。その反面、民族的な味わいや、抒情性は少し乾いて感じられた。

先日聴いたN響に較べソーシャルディスタンスは少なく、通常のコンサートと大きく変わらないように見えたが、神奈川フィルにとってひさしぶりの演奏なのか、熱気は充分なものの、奏者同士の有機的なつながりが少し弱かったように思えた。

自筆譜にかかわるシンバルだが、たぶん第4楽章64小節目のシンバルが叩かれる位置が一拍ずれていたところを直したのではないだろうか。本番では今一つ違いがわからなかったので、アーカイブ映像で確かめてみたい。

 

ドヴォルザークの「新世界より」の自筆譜については、指揮者の内藤彰さんが、「自筆譜に完全準拠した新改訂版」(㈱ハンナ刊)を出されているので、興味ある方はぜひご覧ください。

また指揮者の藤岡幸夫さんがブログでも一部(シンバル部分はありません)紹介されています。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201501.htm#fromsachio20150108-Shinsekai





 

 

フェスタサマーミューザKAWASAKI2020 下野竜也 読響 反田恭平 務川慧悟

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(7月29日・ミューザ川崎シンフォニーホール)

充実したコンサート。終演は9時10分過ぎ。
読響は8-6-4-4-3の弦が舞台下手に、管楽器が上手に分かれる。下野はプレトークで、コロナによるソーシャルディスタンスを逆手にとり、ストコフスキーのアイデアを取り入れたと話した。

 

モーツァルトの「交響曲第32番」は序曲のような10分たらずの短い1楽章の交響曲。切れの良い躍動感ある颯爽とした演奏。中間部はもう一つ陶酔感ある優雅さもほしいが、立派な演奏であることは確か。

 

弦と管は、初期のステレオのように左右の分離がはっきりする。第32番はホルンが4本の他、2管編成の管楽器で構成され、モーツァルトの交響曲の中では最も管が多い曲で、管楽器を聴くにはうってつけかもしれない。

 

プーランクの「2台のピアノのための協奏曲」は、梅雨空を吹き飛ばす素晴らしい演奏だった。人気沸騰中のピアニスト、反田恭平と昨年ロン=ティボー国際音楽コンクール第2位となり、注目の務川慧悟の共演ということから、チケットも早くに完売、女性ファンが多かった。

 

第1ピアノを弾く反田恭平の切れのいい軽やかなピアノに対し、第2ピアノの務川慧悟は詩的で瑞々しい豊かな音を奏でる。二人の対照的な音色は、昨日の神奈川フィルの二人のコンサートマスター、石田泰尚と﨑谷直人の音の違いを思い出させた。

 

下野読響と二人の緊密なやりとりは見事だった。
個人的には、務川が弾く第1楽章の、ラヴェルのピアノ協奏曲第2楽章に似た美しい旋律を奏でる表情が最も心に響いた。

 

ひとつ気になったのは、弦楽器の構成と位置。プーランクは弦の数(8-8-4-4-4)を変えてはいけない、と指示するほか、楽器配置も見取り図で示しているが、下野竜也はそのあたりどう考えたのだろう。今回はコロナ禍の例外としたのかもしれない。

 

二人のアンコールは、モーツァルトの原曲にグリーグが2台ピアノのパートを付け足したという「ピアノ・ソナタK.545ハ長調」第1楽章。
二人はデュオを組みリサイタルを行っており、6月にオンラインコンサートを行ったさいにもこの曲をアンコールで弾いた。繰り返しの旋律を交替しながら引き分けたりするなど、楽しい演奏が繰り広げられた。

 

休憩後のサン=サーンス「動物の謝肉祭」はオリジナルの室内楽版。下野はMCをしながら、曲とメンバーを紹介。

読響の首席奏者たちの妙技が素晴らしい。中でもチェロ首席の富岡廉太郎の「白鳥」の弱音が出色、反田と務川がその弱音にぴったり合わせる演奏も良かった。この曲では第1ピアノを務川、第2ピアノを反田が弾いた。

 

モーツァルト「交響曲第31番《パリ》」は、第32番同様、しなやかで弾けるような勢いのある演奏。のぞむらくは、ここにノーブルな雰囲気が加われば、さらに素晴らしいモーツァルトとなるのでは、と思った。
アンコールはサン=サーンスの「アヴェ・マリア」。編曲は「動物の謝肉祭」にも出演した作曲・編曲も得意な打楽器の野本洋介。癒される演奏と編曲だった。
下野竜也(c)Naoya Yamaguchi

 

 

 

 

 

 

フェスタサマーミューザKAWASAKI2020 秋山和慶 東京交響楽団 《田園》《運命》

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(7月30日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
初めて《運命》を聴いたときの感動を思い出させる素晴らしい演奏。数多く聴いた実演のなかで、最も感動的な演奏のひとつと言っても過言ではない。
冒頭の4つの音の動機をはじめ、すべての音に中身のぎっしり詰まった重厚な響きと力強さがあった。

秋山和慶はチェロとコントラバスをギシギシ弾かせ、ヴァイオリンとヴィオラも弓をいっぱい使わせる。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。
多少音の濁りもあり、洗練された切れ味はないが、実直で武骨さを感じさせる音が最後まで充満し、コーダに向かって重戦車のように突進していった。


聴いた後、これぞベートーヴェン!という充実感でいっぱいになり、同時に胸に熱いものがこみあげてきた。

秋山への賞賛の拍手は、楽員が引き上げ、場内アナウンスが流れてもやむことはなく、秋山が一人舞台に現れるとスタンディング・オベイションが起こった。ブラヴォを叫べないのが残念だったが、おそらく他の観客も同じ思いだっただろう。

 

秋山はプレトークで、音楽評論家、奥田佳道氏の『《運命》のどこがすごいですか?』という質問に対し、『スフォルツァンド(とくに強く)が多いこと。《運命》と《田園》ですごく増えている。そこら中に出てくる。手抜きできない。びっしり書いてある。』と答えていたが、まさにスフォルツァンド(とくに強く)のベートーヴェンだった。

 

前半の《田園》も、12型のオーケストラが奏でる分厚い響きに、これだ、この音を聴きたかったという満足感を味わった。各楽章のクライマックスも力強いものがあった。
しかし、今日はとにかく《運命》が凄すぎた。

来年80歳を迎えるという秋山和慶だが、覇気に満ちた指揮は年齢を感じさせない。失礼ながら、これまで手堅い指揮者という印象を持っていたが、その認識は根底から覆された。脱帽するほかない。

 

フェスタサマーミューザKAWASAKI 高関健 群馬交響楽団 ベートーヴェン交響曲第4&2番

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(8月1日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
ベートーヴェン「交響曲第4番」は、流れの良いところと、少し引っかかるようなところがあるように思えた。

一方で、第1楽章の序奏から第1主題に入る颯爽とした動き、再現部、第4楽章展開部の活気あふれる演奏は高揚感があった。

第2、第3楽章はきっちりしているが、聴き手を楽しませる旋律の美しさを強調するというエンタテインメント性がなく、少し物足りない。
楽譜と作曲家に忠実という高関のポリシーが徹底されていたとはいえ、もう少し聴衆を楽しませることも意識していいように思えた。

 

しかし、その高関の行き方はベートーヴェン「交響曲第2番」では、完成度の高い演奏をもたらした。古典派の枠の中で、できることは全てやりつくすというベートーヴェンのスケールの大きさが、どこにも隙のない堅牢な高関と郡響の演奏により、非常によく表れていた。質実剛健という言葉がふさわしい名演だった。

 

アンコールはベートーヴェン「バレエ《プロメテウスの創造物》序曲」。歯切れのよい、きっぱりとした演奏。

 

高関はいつものメガネ姿ではなかったが、マスクをするとレンズが曇るからとのこと。とってみたら、問題ないのでこれからはこれでいくとプレトークで話していた。

 

高関健©(c)MasahideSato

 

 

フェスタサマーミューザKAWASAKI2020 尾高忠明&東京フィル 戸澤采紀 佐藤晴真 田村響

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(8月2日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
前半はベートーヴェン「ヴァイオリン、チェロとピアノのための三重協奏曲」。
東京フィルは12型。

ソリストはヴァイオリンが戸澤采紀(とざわさき)、チェロが佐藤晴真(さとうはるま)、ピアノは田村響(たむらひびき)。
生年は戸澤が2001年(19歳)、佐藤が1998年(22歳)と若く、田村が少し上で1986年(34歳)。

 

3人は「フレッシュ三人組」と呼びたくなる新鮮で活気に満ちた演奏を披露した。
ヴァイオリンの戸澤は、まっすぐでキリリと引き締まった音。
チェロの佐藤はたった今切り出されたヒノキの香りが漂うようなキレのいい響き。
田村はこのふたりより一回り年上であることを示すように落ち着いた音色で、安定感は抜群。

第1楽章はオーケストラが堂々と主題提示を終えると、佐藤の晴れやかなチェロ、戸澤のピュアな音色のヴァイオリン、田村の明るく軽やかなピアノが第1主題をつないでいく。その流れは息が合っており、3人が音楽性を合わせ同じ方向を向いていることを示していた。

 

第2楽章は田村の弾くアルペッジョの上で奏でる戸澤と佐藤の音の重なりが、心洗われるように美しいものがあった。

短いカデンツァから休みなく第3楽章に入りロンド主題を奏でる佐藤の気迫のこもったチェロにゾクッとした。
3人のソロが楽しいポロネーズ風の中間部を経て、ロンド主題となり、最後は一気呵成にコーダに飛び込んでいった。

 

尾高&東京フィルは3人をよくサポートし、万全のバックを務めていた。
ソリスト3人への拍手は熱烈で、アンコールにフォーレの「夢のあとに」が演奏された。
 

チャイコフスキー「交響曲第5番」は、オーケストラが14型にスケールアップ。尾高は東京フィルの力を100‰引き出した。
金管は豪快に鳴る。ホルンは安定しており、首席の高橋臣宜(たかのり)は第2楽章のソロを朗々と吹いた。

 

しかし、管楽器の今日のヒーローは、クラリネット首席のアレッサンドロ・ベヴェラリだろう。チャイコフスキーには少し明るい音色だが、歌心たっぷりに、第1楽章冒頭の主題、第2楽章中間部モデラート・コン・アニマの主題を流れるように滑らかな演奏で聞かせ魅了した。終演後ホルンに続いて尾高が立たせたのも当然だ。

見事な演奏を聴かせてくれたコンサートマスター近藤薫以下、東京フィルのメンバーにブラヴォを送りたい。

 

尾高の指揮は、バランス感覚に優れ、端正なフォームの中に熱気も充分こめられており、素晴らしいと思うけれど、個人的には感動にまで至らなかった。オーケストラのコントロールは抜群だが、もうひとつ心に訴えてくるもの、作品の持つ感情が聞こえてこなかった。
 

たとえば、第1楽章第2主題。モルト・カンタービレ・エド・エスプレッシーヴォ(よく歌うように、表情豊かに)とチャイコフスキーは書いている。表情豊かにということは、喜怒哀楽の感情が込められるべきではないだろうか。尾高の表現は、磨き抜かれた音ではあるが、そうした感情の襞があまり感じられない。

第2楽章のホルンのソロにも、ドルチェ・コン・モート・エスプレッシーヴォ(柔らかく動きをつけて表情豊かに)と書かれている。ソロは雄大ではあるが、聴いていて感情移入ができない。

 

絢爛豪華なクライマックスの数々も、確かに金管は咆哮し、熱気が感じられるが、血湧き肉踊るとはいかず、興奮は呼び覚まされない。

尾高は英国での活躍が長く、感情を露わにしないイギリス人気質をも身にまとったのだろうか。
そういえば、7月11日に新日本フィルを指揮したブラームス「交響曲第1番」も熱狂と構成とのバランスをとった演奏だった。それが尾高の持ち味ということだろう。

 

アンコールはコロナで命を落とした志村けんさんと岡江久美子さんをはじめ、犠牲者を追悼するため、チャイコフスキーが支持者の死に際して書いたエレジー「イワン・サマーリンの栄誉のために」が弦楽で演奏された。
 

尾高忠明©Martin Richardson 戸澤采紀©Smile Style Studio 佐藤晴真©ヒダキトモコ 田村響©武藤章

久石 譲編曲のベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」カデンツァ 世界初演

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昨日のフェスタサマーミューザKAWASAKI2020「新日本フィルハーモニー交響楽団」のレヴューが「ほぼ日刊サマーミューザ」にアップされました。

最大の聴きどころは、ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」のカデンツァ。

この作品でカデンツァを書かなかったベートーヴェンがピアノ協奏曲に編曲した際に作ったものを基に、久石 譲が編曲、完全復活させたこと。

 

NovacekやWulfhorstというヴァイオリニストが同じようにピアノ協奏曲のカデンツァを基にヴァイオリン協奏曲のカデンツァを編曲していますが、彼らの独自の判断で小節をカットしており、その意味では今回の久石編曲バージョンはベートーヴェンのオリジナルを完全復活させたものになり、世界では唯一のカデンツァで、今回が世界初演になりました。

 

ⓒ青柳聡

記事はこちらから↓

https://www.kawasaki-sym-hall.jp/blog/?p=13230

 

オンライン鑑賞券はこちらから↓

https://tiget.net/tours/summermuza20200804

 

フェスタサマーミューザKAWASAKI2 渡邊一正 神奈川フィル 黒木雪音 阪田知樹 清水和音

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(8月6日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
「ベートーヴェン生誕250年 ベートーヴェン・ピアノ協奏曲づくし」と副題にあるように、第1番、第4番、第5番《皇帝》の3曲が15分の休憩をはさんで演奏された。

 

第1番を弾いた黒木雪音は以前聴いた気がすると思い、帰って調べたら昨年3月横浜みなとみらい大ホールの「フレッシュ・コンサート」で聴いていた。
そのときの感想はここにあるが、↓ 技術的にはより安定しており、オーケストラとの共演にも慣れてきたようだ。

https://ameblo.jp/baybay22/entry-12445999543.html

 

黒木はパリパリッとした思いきりのいいピアノを今日も披露したが、表情や音色が全体に一本調子で、技術ばかりが目立ってしまう。ただ、前回には感じられなかったコケテッシュな表情(たとえば第1楽章第2主題、同楽章展開部など)が時々感じられ、聴くものを惹き付ける。そうした面をもっと出してもいいと思うが、真面目なベートーヴェンということで、押さえたのかもしれない。
渡邊&神奈川フィルは、最初響きが硬かったが、終わりに向かって熱くなっていった。

 

阪田知樹の第4番は、さすがに音色のパレットが黒木より多く、潤いと艶がある。阪田は先日聴いたラフマニノフの第2番が平板に思え、ブログにも辛口を書いたが、今日の演奏はそれを完全に払拭する素晴らしいものだった。

プレトークで、神奈川フィルのソロ・コンサートマスターの﨑谷直人が、阪田の音楽性がこの曲に合っている、と語っていたが全く同感。第1楽章のカデンツァから終結部のアルペッジョは本当に美しいものがあった。
ソリストがいいと、オーケストラも触発されるのか、渡邊&神奈川フィルも音に潤いと奥行きが出て、阪田との一体感が感じられた。拍手もこの演奏が一番大きかった。ミューザの聴衆は音楽が本当に良く分かっている。


清水和音の第5番《皇帝》は、この曲を完璧に手中にした安定感抜群の演奏だったが、先日尾高忠明&新日本フィルとの共演で同じ曲を弾いた時にも感じたように、演奏に深みがない。短期間に二度続けて聴いてよくわかったが、清水の演奏は、「ルーチンワーク」になってしまっている。時々打鍵がぞんざいに感じられた。
 

彼は《皇帝》をこれまで150回!前後弾いているという。弾きすぎたことで、初めてこの曲を弾いたときの緊張感が薄れてしまったのかもしれない。


﨑谷直人がプレトークで『ベートーヴェンの音楽は作曲されたころ時代の最先端を走る<現代音楽>であり、当時の人々は驚きを持って聴いたはず。我々はベートーヴェンがどういう音楽か知りすぎてはいるが、自分がカルテット(ウェールズ弦楽四重奏団)でベートーヴェンを弾くときは、何か新しいものを発見したいし、聴衆にも初めて知るような驚きを与えたい』と話していたが、清水和音にもぜひそうなってほしい。
清水のもつ高い音楽性を存分に発揮して、聴き手をはっとさせる驚きに満ちた演奏を聴かせてくれることを期待したい。

 

阪田知樹©HIDEKI NAMAI、清水和音©Mana Miki、渡邊一正©Satoshi Mitsuta

 


サマーミューザ 飯守泰次郎 東京シティ・フィル ブルックナー《ロマンティック》

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(8月7日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
ワーグナー「タンホイザー」序曲冒頭の「巡礼の合唱」の旋律では、ドイツの深い森の奥から響いてくるようなホルンを期待したが、余り奥行きが感じられなかったのは少し残念。しかし、次にチェロが奏でるタンホイザーの悔悟の動機は厚みがあった。「ヴェーヌス讃歌」が大きく盛り上がった後の「巡礼の合唱」が「ヴェーヌス讃歌」を凌駕していくクライマックスはシティ・フィルの渾身の弦の上に金管が勝利の凱歌をうたいあげた。

 

ホルン交響曲ともいえるブルックナー「交響曲第4番《ロマンティック》」(ハース版)では、肝心のホルンが不調だったのが気の毒だった。出だしは好調だったが、気が緩んだのか、その後に続く低い音をはずした他、全曲の中で何度も出るソロでヒヤヒヤする場面があった。ただ全体的には健闘しており、終演後飯守が真っ先に立たせて、労を労っていた。
 

ホルンの瑕を除けば、演奏は大変立派なもので、このコロナ禍にあって、よくぞブルックナーを取り上げてくれたという感謝の気持ちでいっぱいになった。
 

12型の弦が14型あるいは16型になれば更に厚みが出ただろうが、今の状況ではそれは詮なきこと。それよりもシティ・フィルの熱演を讃えるべきだろう。コンサートマスター戸澤哲夫以下弦の踏ん張りは感動的だった。

ヴィオラの首席は元N響首席の小野富士(ひさし)。荒井英治、戸澤哲夫、藤森亮一とともにモルゴーア・クァルテットのメンバーであり、戸澤とは長年の信頼関係で結ばれている。第2楽章の副主題で充実した響きを生み出すなど、ヴィオラ・セクションをよくひっぱっていた。

 

ブルックナーの交響曲の肝である金管も全開で大健闘。各楽章のクライマックスは期待を満たす素晴らしく充実した分厚い音に満足した。

 

飯守のブルックナーは、全体像がしっかりとして、確信に満ちている。音楽の悠々とした運び方、ひとつひとつのフレーズの重み。ブルックナーの音楽が持つ崇高さが良く伝わってくる。80歳という円熟の年齢にふさわしい名演だった。

飯守は足の手術をしたとのことで、歩行が大変そうだったが、指揮台では全曲立って指揮した。楽員がステージから去っても飯守への熱い拍手が長く続き、ソロ・カーテンコールになった。

飯守泰次郎©東京シティ・フィル

フェスタサマーミューザ 梅田俊明 日本フィル 村治佳織 松岡裕雅

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(8月8日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
弦楽合奏で演奏されるレスピーギ「リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲」での梅田俊明&日本フィルは品のある響きを維持した。ヴィオラは、昨日のシティ・フィルを思い出すやわらかで温かみのある音だった。

ギターに村治佳織、オーボエ・ダモーレに日本フィルのオーボエ副首席松岡裕雅をソリストに迎えた武満徹「虹へ向かって、パルマ」は、ギターとオーボエ・ダモーレが旋律を交わす中、虹を思わせる色彩感ある響きがホールに広がっていく。
 

ギター協奏曲の中で最も規模が大きく、ソロとのバランスをとるのは難しいとプレトークで梅田が語っていたが、3管編成の木管、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、ハープ2台、チェレスタのほか多数の打楽器という巨大なオーケストラとPAを使うギター、オーボエ・ダモーレがとても良いバランスで聞こえた。
コンサートマスターはアシスタント・コンサートマスターの千葉清加。

 

アンコールに村治佳織が、武満徹晩年の作品「森の中で」の第1曲<ウェインスコット・ポンド―コーネリア・フォスの絵画から―>を弾いた。森の中の静かな池の光景が浮かび思い出を語るような音楽だが、コーネリア・フォスは武満が親しかった作曲家、指揮者ルーカス・フォスの奥さんでもあり、かつてピアニストのグレン・グールドとの間に秘めた恋があったという。
映画でも紹介されていた。

https://www.uplink.co.jp/gould/introduction.php

 

後半は、ベートーヴェンの「交響曲第1番」、第4楽章が生き生きとしてとても良かったが、この調子で第1楽章からやってほしかった。
梅田の指揮は、久しぶりに聴いたが、派手なパフォーマンスや、尖った解釈とは反りが合わない堅実な指揮者だと思う。
わたしが大好きなピエール・モントゥーや、その弟子のサー・ネヴィル・マリナーのような指揮者になれるのではという気がする。
あのような大指揮者が持つ音楽の生命力と輝かしさ、光沢のある響きを身につければ、さらに魅力的な指揮者になれるのではと期待したい。

 

アンコールは、先日の高関健と群響とおなじ、ベートーヴェン「バレエ音楽《プロメテウスの創造物》第1幕序曲」。バッティングは主催者も予想できなかった模様で、ミューザならではのハプニングだが、聴く方は比較がとても面白い。
群響のインパクトのある切れのいい響きに対して、日本フィルは響きが柔らかく、奥行きがある。バレエ音楽としては梅田&日本フィルのほうが合っているかもしれない。

 

フェスタサマーミューザも明日の東京交響楽団フィナーレコンサートを残すのみ
梅田がプレトークで語ったように第2の緊急事態宣言がいつ出てもおかしくない中、これだけの規模(全17公演)の音楽祭を、公演と映像配信で開催・実現した関係者と出演者のみなさんの努力に感謝したい。

 

 

 

フェスタサマーミューザKAWASAKI2020 東京交響楽団フィナーレコンサート 原田慶太楼 

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(8月10日・ミューザ川崎シンフォニーホール)
原田慶太楼のアラビアンナイト(千夜一夜物語)と題されたフェスタサマーミューザKAWASAKI2020フィナーレコンサート。

東京交響楽団は14型対向配置。久しぶりに聴くフル編成。
ショスタコーヴィッチ「祝典序曲」は、凄い勢いとスピード感があった。クライマックスではオルガン前にホルン4,トランペット3、トロンボーン3のバンダも登場し、輝かしいブラスの響きが会場に響き渡った。
原田は力が入りすぎたのか、タクトが宙を切るような印象もあった。少し重心をさげ、タメを作り爆発させても良かったように思う。

 

景山梨乃をソリストとするグリエールの「ハープ協奏曲変ホ長調」は、景山のハープに可憐で清楚な表情があり、作品の抒情性が良く出ていた。第1楽章のカデンツァは景山の長所が発揮され、細やかな音がつむがれていった。

この曲は華やかでもあるので、ハープの響きにもう少し派手できらびやかな輝きや豪華さがあっても良いように思えた。原田&東響は景山の音楽に合わせたきめの細かいバックをつけていた。
アンコールは、ルニエ「いたずら小鬼の踊り」。景山にぴったりの可愛らしい小品だった。

リムスキー=コルサコフ「交響組曲《シェエラザード》」は、原田と東響の若いエネルギーが爆発したパワフルで切れ味が抜群の、細部まで良くコントロールされた快演。ブラスが冒頭のシャーリアール王の主題をロシア的な極彩色がある重厚な音で吹奏する。


切れの良いヴァイオリンやヴィオラをはじめ、生き生きとした名人芸を聴かせる楽員個々の演奏が素晴らしい。何よりもコンサートマスター水谷晃のソロがキリリとしたシェエラザードを思わせ、光り輝いていた。
木管(オーボエの荒木奏美が出色)も全員が積極的なソロを披露、チェロ首席の伊藤文嗣のソロも木の香りが感じられた。金管もホルン、トランペット、トロンボーン、テューバが安定した演奏を聴かせた。
景山梨乃は、前半のソリストだけではなく、この曲でも参加し、要所を締めるハープを聴かせてくれた。

 

全楽章アタッカで突き進んだが、原田の指揮で聴く《シェエラザード》は、まるでストラヴィンスキーの《春の祭典》のようにエキサイティングで切れがあり、爆発するパワーがある。ロシアの大地のエネルギーと現代のテクノロジーが合体したような野性味と精密さを兼ね備えた演奏だった。

プログラムのメッセージに原田はロシア音楽とのかかわりについて語っているが、高校時代にyoutubeで見たゲルギエフ、テミルカーノフ、ビシュコフのつくるロシア的な音に魅せられ、サンクトペテルブルクまで勉強に行き、ウラディーミル・ポンキンに師事、彼の後押しもあり、モスクワ交響楽団でのデビューにつながったという。
来年4月から東京交響楽団の正指揮者に就任する原田。詳しい方の話では、ショスタコーヴィチとプロコフィエフを定期的にとりあげるとのこと。これは本当に楽しみだ。

 

原田はソロカーテンコールに登場したさい、水谷と景山も呼び、スタンディンクオベイションを受けていた。

今日は、7月23日から3週間にわたって開催されたフェスタサマーミューザの最後を飾るにふさわしい、華やかでさわやかなフィナーレコンサートだった。


原田がプレトークで語ったように、コロナ禍の中、世界中でこれだけの数のコンサートが開かれている国は日本だけであり、この祭典を実現した関係者のみなさん、ドアノブの頻繁な消毒まで行うスタッフの献身的な努力に改めて深く感謝いたします。大変お疲れ様でした。来年はフルスケールで開催できますよう祈っております。

 

 

 

高関健 東京シティ・フィル ブルックナー「交響曲第8番」(ハース版)

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(8月12日・東京オペラシティ)

高関健指揮、東京シティ・フィルのブルックナー「交響曲第8番」(ハース版)は、これまで聴いた高関の名演の中でもベストの一つだった。同列に並ぶのは、シティ・フィル常任指揮者就任記念のスメタナ《我が祖国》(2015年4月11日)、そしてベルリオーズ《ファウストの劫罰》(2016年3月25日)の二つ。
 

シティ・フィルの弦は12型だが、管は3管編成、ホルンはワーグナーテューバ持ち替えを含む8人のフル編成。ハープは2台だった。

ミューザで飯守泰次郎指揮の《ロマンティック》を演奏した時よりもアンサンブルはタイトで、集中力があった。磨き抜かれた弦、輝かしい金管、美しいオブリガートを奏でるフルートをはじめとする木管の演奏は見事なものだった。

第1楽章からテンポは遅めで、土台がびくともしない構造を持っていた。冒頭のヴァイオリンのトレモロから気合が入り、第1主題は金管の総奏で壮大に確保される。第2主題は息の長い旋律線をしっかりと保ち、第3主題のホルンも決まり、トランペットのファンファーレに続く最初の頂点も輝かしい。展開部のクライマックスも力強く、コーダのブルックナーが「死の予告」と称した信号音の金管の強奏も決然としている。

 

第2楽章スケルツォも隙がなく締まった演奏で、特にスケルツォ後半の金管群が素晴らしい働きを見せた。トリオは雄大な表情があった。


第1、第2楽章が素晴らしかったが、しかし、圧巻は第3、第4楽章。
 

第3楽章をこれほど遅めのテンポで聴くのは久しぶりだ。演奏時間は約28分。
ハース版を使ったブーレーズの24分、朝比奈隆&大阪フィルとカラヤン&ウィーン・フィルの25分よりも長く、ヴァント&ミュンヘン・フィルとほぼ同じ長さ。

冒頭の3連音から、息の長い第1主題、チェロに始まる第2主題も、テンポが全く揺るぎなく保たれるのは驚異的で、高関の指揮力の高さに感嘆した。
シティ・フィルの演奏も最高度の集中度が発揮され、弦の艶、輝かしい金管、ワーグナーテューバのハーモニーなどいずれも惹き込まれる。


高関がプレトーク(プレトークについては最後にまとめました)で話した事件の個所。その顛末は『某洋酒系ホールでの第8番。二回目のシンバルが鳴りハープが入ってきたあとdes-mollの美しい場所で、携帯の時刻アラームが鳴った。同じことが二度あった。それが丁度8時。だから今日は7時3分に開始させてください。』というもの。


今回はシンバルの後の浄化されるような美しい場面で、アラームではなく、大きな咳がきこえたのには思わず失笑してしまった。高関はよほど運が悪いのだろうか。

 

第4楽章も遅めの揺るぎないテンポを維持、ブルックナー休止に至る緊張感は終始保たれた。「死の行進」と言われる提示部最後のティンパニの強打とともに始まる荘重な部分も堂々としている。


それが終わるとノヴァーク版ではカットされている211小節から230小節のソロ・ヴァイオリンを含む静かな場面に入り、やがてホルンの穏やかなハーモニーにつながっていく。ここはノヴァーク版で聴きなれた耳には新鮮な感覚があった。
再現部の金管の咆哮とともに叩かれるティンパニの強打も強烈。

 

テンポが遅いまま、悠然と進むコーダは今夜の演奏のクライマックスを合計した総決算のよう。それまでのすべての主題が一斉に咆哮するが、それぞれかなり明確にオーケストラから聞き取れた。

 

この演奏は高関にとっても会心の出来だったのではないだろうか。
スタンディンクオベイションをする聴衆も多く、高関のソロカーテンコールとなった。


 

付記;高関健のプレトークの内容

高関は開演前のプレトークで、第8番には思い入れがあると語った。中2の頃NHKのFM番組でブルックナーの版の違いについて解説があり、興味を持ちハース版のスコアを買った。クナパーツブッシュ、ミュンヘン・フィルのレコードを買ったが全然違う。

初めて第8番の生を聴いたのはマタチッチの代役で森正がN響を指揮した1970年代初めころ。スコアを見ながら聴いていたので、どんな演奏だったか思い出せない。感動したのは75年朝比奈隆大阪フィルの演奏。


留学先のベルリンでリハーサルを含めヨッフム、ベルリン・フィルの第8番を3回も聴いた。休憩中にヨッフムがハース版のスコアを使っていたことを確認、同時に第3、4楽章はノヴァーク版と同じカットがあることを知った。ヨッフムがスコアに何度目の演奏かを書いてあるのを見たら1978年の段階でなんと86回目だった。
高関は今回が12回目だという。演奏時間は1時間25分くらいになると付け加えた。

 

高関は、今日はスコアのかわりのお守りにブルックナーの改訂の全てを調べた資料集(著者名と書名は聞き逃した)を指揮台に置くと話し、ブルックナーが人の意見に影響を受けやすい人だったことは第7番の初演をしたニキシュがシンバルを入れることを提言、結果が大成功だったため、第8番にも入れたことでわかるという例をあげながら、弟子達の改訂にかかわるエピソードを語った。


第8番については第3番、4番《ロマンティック》ほど弟子たちの関与はないものの、シャルク、レーヴェなどが、作曲の最中から積極的に関わっている。彼らはブルックナーが書いた楽譜を持ち出し第1、第2楽章を四手連弾用に編曲するなどしていたという。

 

1890年稿は関与の事情がわかりにくい。ブルックナーの修正は、第1楽章は写譜に手を入れている。第2楽章はすべて自分で書いている。第3楽章は3回書き直している。第4楽章は自筆譜に手を加えている。
今回は先にあげた本を見ながら、ネットで見られる自筆譜を調べつくした。

 

今日はハース版を使う。ノヴァーク版に較べ、第3楽章は10小節長く、第4楽章は40小節長い。カットしないほうが曲の流れが良い。ハースが勝手につなげたと言われたところも後からブルックナーの自筆が出てきた。
シャルクが書いたと思われる部分は消して今日は演奏する。いつもみなさんが聴かれているものとはかなり違う印象を持たれるだろう、と話を締めくくった。

その箇所がどこか、高関は示さなかったが、展開部後半の長く続く静謐な弦の動きは、初めて聴いたような気がする。これがその部分だろうか。第1主題が再現するまで、どこかをさまよっているように随分時間がかかるが、その長さはブルックナーの悠久の時のようであり、作曲家本人はこう書きたかったのだろうという説得力があった。

 

 

高関健© Masahide Sato






 

「音楽の友」9月号 掲載記事

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「音楽の友」9月号が届きました。
演奏再開が増え、コンサート・レヴューも掲載されるようになりました。
今月は広上淳一&日本フィル(7/10サントリーホール)と小林研一郎、三浦文彰(Vn)、読響(7/21サントリーホール)のレヴューを書きました。

Rondoのページには、ジョナサン・ノットの映像指揮(7/18東京オペラシティ)の模様をレポートしました。

 

 

オペラシティ)をレポートしています。

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