(8月1日、すみだトリフォニーホール)
モーツァルト「アダージョ ロ短調K.540」と「ピアノ・ソナタ第17(16)番変ロ長調K.570」は続けて演奏された。「アダージョ」は、ゼルキン自身が何かを探し求めているように、深く沈潜していく。聴き手はとりつくしまがないように思えた。しかし、ソナタになると、一気に開放感に包まれる。花園に遊ぶような第1楽章。
展開部で第2主題が短調に転調したとき、その儚い表情に涙が出そうになった。
ゼルキンは2年前のトッパンホールと同じく、鍵盤に指を押し込むとき、しばしばヴィブラートをかけるように震わせる。それは音のゆらぎとして現れ、独特の語り口が生まれる。ミーントーンという調律の効果もあるのだろう。詳しくはここに。
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=2775/
その特長が生かされたのは、第2楽章アダージョ。諦念に満ちた主題や、ハ短調のエピソードのゼルキンの訥々とした語り口が哀感を醸す。最後に別の旋律が、そしてもう一度最初の主題が、天国の歌のように奏でられた。
第3楽章も付点音符のついた第3部は天国に遊ぶような世界が展開された。ゼルキンは、演奏しながら誰かと対話しているようだった。相手はモーツァルトだろうか。
休憩後は今日のメインプログラム、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》。演奏時間は約55分。当初予想されていた繰り返しは、冒頭のアリア、第13、16(前半)くらいではなかっただろうか。それらも全ての繰り返しではなかったようだ。間違いであればご教示ください。
アリアが最後にもう一度出たあと、ゼルキンは鍵盤の上で両手を止めたまま、動かなかった。静寂が20秒ほど続いた。そのあと感動が波のように押し寄せてきた。全編を通して語りかけてくるゼルキンの演奏。温かな人間性と、テクニックとは無縁の「音楽」だけを聴かせるゼルキンに魅せられた。
ゼルキンは『《ゴルトベルク変奏曲》は一度たりとも同じように演奏したことはない。即興のように、その場の自発性に委ねる』と明言しているので、一期一会である今日の演奏の特徴を書くことはあまり意味がないような気もする
しかし、これだけは記憶にとどめておきたいと思った部分については書いてみたい。何と言っても「全変奏曲の中で最も偉大な曲」(アンジェラ・ヒューイットの言葉)、第25変奏が圧倒的だった。ゼルキン独特の語り口が、この変奏ほど似合う曲はない。どこまでも果てのない孤独の世界にずっとついていきたいと思った。倚音(いおん=非和声音)に終わる結末はいつ聴いても意外性に富む。
長調が続いた後の短調、第15変奏のしみじみとした味わいも忘れがたい。またバッハのユーモアを感じる第20変奏の下手なような上手いようなゼルキンのアクロバティックなテクニックの披露も楽しかった。
今日得た感動は2年前のトッパンホールの再現そのものだった。待望の《ゴルトベルク変奏曲》を聴けた充実感に満たされた一夜だった。
写真:ピーター・ゼルキン(c) Regina Touhey Serkin