(1月23日・東京芸術劇場コンサートホール)
なんという演奏会だろう。そこまでやるか?!そこまで行きますか?!という驚き、衝撃を受けた。
サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団のラヴェル《クープランの墓》とストラヴィンスキー《春の祭典》、その前に庄司紗矢香のヴァイオリンで、シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」。サロネンも庄司紗矢香も、これまで聴いてきた名演奏をはるかに超えるような高い段階を軽々と成し遂げてしまう。唖然とする、とはこのことか。
前半の庄司は、凄かった。彼女は、聴くたびに一回りも二回りも大きくなる気がする。今回は、サロネンのチェロ協奏曲の日本初演をするはずだったトゥルルス・モルクが肺炎のため来日できなくなり、急な代役となったもの。庄司にとって自分のレパートリーとはいえ、そんな気配を微塵とも感じさせない、ヴィブラートをしっかりと使った豊かな響きで奥深い解釈を聴かせた。どっしりと構えた堂々たる演奏は、まさにヴィルトゥオーゾ以外の何者でもない。サロネンとフィルハーモニア管弦楽団にとっては、頼もしい助っ人に映ったに違いない。
この曲がこれほどやすやすと、何の障害も感じさせず弾かれるのを聴いたのは初めてだ。庄司の表現の幅は、桁外れに大きい。また、それを裏打ちする技術は、浮沈空母のように安定している。サロネンとフィルハーモニア管弦楽団がいかに激しく挑みかかっても、びくともしない。まさに鉄壁同士が手を結び、ゆるぎない建造物を築いていくような、スケールの大きな強靭な演奏だった。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲が、あの小柄でにこやかな庄司紗矢香の手によって、巨匠の風格で演奏されるのを目の当たりにして、驚愕するばかり。恐るべき演奏家に成長したものだ。
アンコールは、パガニーニ「《うつろな心》による序奏と変奏曲」から「主題」。ロッシーニの歌劇「タンクレディ」の第1幕のアリアの旋律による長い序奏と2つの変奏からなる10分近い難曲。庄司は主題だけを弾いたが、それ自体左手のピッツィカートをふんだんに使う難しいもの。庄司の鮮やかな演奏は、ロシアの演奏会のアンコールでも弾かれたyoutubeの映像でも見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=hmpyjsmkrVo
メインのストラヴィンスキー《春の祭典》は、冒頭に書いた通りの感想。
「なんだこれは!?」の衝撃は、先週の下野竜也&読響によるグバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」でも体験したが、サロネン&フィルハーモニア管の《春の祭典》も、聴きつくしたと思った作品が、まったく衣裳が異なる形で現れ、初演で聴いた聴衆のショックを自身が受けるようだった。
印象を一言でいえば、『超新星爆発のエネルギーがこちらに向かって突進してくる』というもの。サロネンのタクトが一閃するたびに、想像を絶するエネルギーを持った輝かしく、引き締まった音が衝撃を伴ってこちらに向かってくる。第1部最後の「大地の踊り」と、第2部最後の「生贄の踊り」はその最たるもので、押し寄せる音に踏みつぶされるのではないか、というスリルと恐怖を味わった。
一方で、緩徐な部分は嘘のように穏やかな、しかもゆったりとした時間が流れるのも、不思議な気がした。フィルハーモニア管の演奏能力もまた庄司紗矢香に負けじと、幅が広く、奥が深い。
28日のストラヴィンスキー「《火の鳥》(1910年原典版)」と、29日のマーラー「交響曲第9番」は、果たしてどのような演奏になるのだろう。28日は庄司紗矢香がショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番」を弾く。早くから予定されていた曲目であるため、当然練り上げられているはずだ。期待しよう。
1曲目のラヴェル「クープランの墓」は、スキのない緻密な演奏だった。特に第1曲「前奏曲」と第3曲「メヌエット」はニュアンスが細やかだった。
サロネンへのソロ・カーテンコールは2度あった。 なお、今日はNHKにより8K(!)の収録が行われていた。