4. 6〈火〉19:00 サントリーホール
細川俊夫、デュティユー、マーラーの作品それぞれは、死と祈り、樹木の生成、死と再生がテーマになっている。全体がひとつの輪のようにつながる良く練られたプログラムであり、演奏も素晴らしく、いいコンサートを聴いたという充足感に包まれた。
「細川俊夫:冥想 -3月11日の津波の犠牲者に捧げる-」
全ての音が明快に聞こえるカーチュンの長所が出た演奏。冒頭の宇宙の鼓動を表すような大太鼓の音は畏怖を感じさせる。悲劇的な高まりの弦のグリッサンドのあと、最後に魂が天に昇っていくような音は何だろう?ボンゴの表面を擦って出すのだろうか?
作品の深みを余すところなく伝えるカーチュンの指揮に、会場で聴き入っていた細川俊夫も満足したのではないだろうか。指揮台と客席の間でお互いを賞賛し合う姿が爽やかだった。
デュティユー:ヴァイオリン協奏曲「夢の樹」
アイザック・スターンの還暦祝いのために書かれ、結果としてお祝いの年には間に合わなかったが、スターンとマゼール指揮フランス国立管弦楽団により1985年に初演されたデュティユー「ヴァイオリン協奏曲《夢の樹》」は、諏訪内晶子がプログラミングにさいして熱望したというだけあって、彼女の気迫が伝わってくる目覚ましい演奏だった。
第2楽章ヴィフ(快活に)ではヴァイオリンが縦横無尽に激しい動きを繰り返し、第3楽章ラン(ゆっくりと)のコーダでは安定した技術で高音のトリルやフレーズを完璧に弾いた。第4楽章ラルジュ・エ・アニメ(ゆとりをもって生き生きと)でも、フラジオレットや高速のピッツィカート、動きの激しい重音など超絶技巧を次々に聴かせた。
カーチュンと読響もツィンバロンやジュ・ドゥ・タンブル(鍵盤型グロケンシュピール)、ピアノほか多数の打楽器を使う、時にメシアンを思わせる色彩豊かな作品を切れ味鋭く演奏した。
マーラー:交響詩「葬礼」
マーラー:交響曲第10番から“アダージョ”
後半のマーラー2曲(「葬礼」約23分/“アダージョ”約25分)は、続けて演奏された。
若きマーラーが交響曲と交響詩の間で揺れ動き、後に第2番《復活》の第1楽章に転用した「葬礼」と、最後の未完の交響曲となった「第10番」の第1楽章アダージョがひとつの作品のように演奏された。
2016年マーラー国際指揮者コンクール優勝のカーチュンの力量がより鮮明に浮き彫りにされた名演。「葬礼」冒頭のコントラバスによる第1主題のfffがこれほど立体的に、しかも切れのある、よく響く音を伴って聴こえたのは初めてだ。12-12-10-8-6という編成であり、16型より小ぶりにもかかわらず、オーケストラは名器のように鳴りが良かった。
葬礼の最大のクライマックスである、展開部最後のカタストロフィのような巨大な音響は、魂を震撼させるまでには至らなかった。そこはまだ若い指揮者で巨匠とは違うのかなとも思ったが、もし16型のオケであれば、そのレベルまで行ったかもしれない。
続けて演奏された 第10番アダージョでは、序奏を奏でるヴィオラが、これまた鳴りが良い。カーチュンにかかるとオーケストラの音が一変する。日本のオケの団子になった音ではなく、乾燥した木のホールで鳴るヨーロッパのオケのような音に変わる。
それぞれの楽器やセクションが立体的にくっきりと浮かび上がってくる。響きの混濁がないため、作品の構造がよく理解できる。
カーチュンの指揮姿は、両足が指揮台に張り付いたまま、がっちりと固定されており、体幹が大黒柱のようにしっかりとしているが、その姿勢のように演奏に堅牢な芯が太く通っており、揺るぎがない。
第10番では変奏を伴って反復される提示部が最も高揚し集中力もあり、最大の聞き物だった。
オーケストラが舞台から去っても拍手が続き、カーチュンのソロカーテンコールとなった。
カーチュン・ウォンは2018年からドイツのニュルンベルク交響楽団の首席指揮者を務めているが、奥様が日本人であり、日本に拠点を持つことは容易だと思う。日本のオーケストラは他に奪われる前に、一刻も早く手を挙げ、客演首席、首席、常任、音楽監督などに招くべきではないだろうか。