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Channel: ベイのコンサート日記
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ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサン ヘンデル《メサイア》

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(10月14日、東京オペラシティコンサートホール)
完璧で手の込んだ美しい工芸品を鑑賞するような《メサイア》。

 

特にクリスティがマルカントワーヌ・シャルパンティエの音楽劇『レザール・フロリサン(花咲ける芸術)』をとって名付けたオーケストラと合唱が素晴らしかった。

古楽オーケストラとしては、破格のうまさ。古楽のヴィルトゥオーゾ集団とでも呼びたくなる鮮やかな演奏。コンサートマスターのヒロ・クロサキさんの献身的なリードが演奏全体に生き生きとした生命力を与えていた。全曲が終わったあと、「やりつくした」とばかりに、クロサキさんが涙をぬぐう姿に感動を覚えた。

 

合唱は24 人。一人一人が個性を持って、積極的に歌うため、ソリストがこぞって歌うような、個性的な合唱が生まれていた。

 

 ソリスト5人は、安定した歌唱だった。ジェームズ・ウェイ(テノール)の若々しく力強い歌唱、キャスリーン・ワトソン(ソプラノI)の清らかで滑らかな歌、エマニュエル・デ・ネグリ(ソプラノII)は艶のある、技巧的な装飾音を駆使した歌唱が鮮やか、ティム・ミート(カウンターテナー、アルト)は、難しい音程を頑張ってよく歌っていたと思う。

 

感動したというよりも、見事なまでに芸術的な演奏に感銘を受け、心底から感心したコンサートだった。

 

今年のコンサートの中でも記憶に残るひとつになることは間違いない。









 


テミルカーノフ指揮 読売日本交響楽団 ブラームス・プログラム

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(10月20日、東京芸術劇場コンサートホール)
 ユーリ・テミルカーノフと読響の5回にわたるコンサートの最終回。元気に全ての公演を振り抜いた。風邪をひいてしまい、15日のサントリーホールでのチャイコフスキー交響曲第5番を聴き逃したのは残念だが、 今日はブラームス・プログラムで、読響から豊かな中低音を引き出し、重厚な演奏を聴かせてくれた。
 前半は、セルゲイ・ハチャトゥリアンを迎えてのヴァイオリン協奏曲。雄大で大河のようなテミルカーノフの指揮は大きな船のように、ハチャトゥリアンを支え、ハチャトゥリアンも伸び伸びとブラームスらしい力のこもった堅固な演奏を繰り広げた。日本音楽財団から貸与されたグァルデリ・デル・ジェス(イザイ)の漆黒の響きがブラームスによく合う。彼を聴くのは二度目で、前回いつどこで聴いたか思い出せないが、8年以上前かもしれない。作曲家のハチャトゥリアンとは関係がない。この間にずいぶん大きなヴァイオリニストになったと実感した。
 
 読響は、木管の名手たちが揃っており、技術的には全く問題ないが、できれば第2楽章はハチャトゥリアンの名ソプラノが歌うようなヴァイオリンに溶け込ませるような柔らかな甘い音が欲しかった。
 アンコールの曲名は聞き取れなかったが、アルメニアのフォーク・ソングのようだ。繊細な高音の悲しみを秘めた曲。ハチャトゥリアンは、今回の台風の犠牲者に捧げます、と前置きし、しみじみと奏でた。
 
 後半の交響曲第2番は、16型のフル編成。冒頭のチェロとコントラバスの主題から、ずっしりとした厚みのある低音が鳴り響く。第2主題では、第2ヴァイオリンやヴィオラの中音域がたっぷりと奏でられる。堂々と進軍するブラームスのスケールの大きな演奏は、巨匠の風格がある。
 
 読響の弦は強力で充実した響きだが、欲を言えば、小森谷巧が率いる第1ヴァイオリンが、もう少し艶のある美しい音色であったら、更なる名演になったと思う。
写真:(c)ジャパンアーツ

ミハイル・プレトニョフ 東京フィル リスト「ファウスト交響曲」ほか

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1021日、サントリーホール)

 プレトニョフの指揮は、魔法のようだ。東京フィルから、どうしたら、あんなに美しい音をひきだせるのだろう。弦は綺麗に磨き抜かれ、お化粧が施されたように甘さをふくんでいる。オーボエはとろけるような甘い音を奏で、クラリネットはコケティッシュだ。ファゴットは品がある。金管は軽やかに、輝いている。オーケストラのバランスも完璧で、どこにも無理な力が入っていない。

 

ビゼーの「交響曲第1番」は、こうした特徴が全て発揮された鮮やかな演奏だった。しかし、一つだけプレトニョフの指揮に馴染めない点がある。音楽に熱があまり感じられないことだ。どこかひんやりとした温度を感ずる。それは違和感として、聴いているあいだ、ずっと感じていた。

 

後半は、リストの「ファウスト交響曲」。男声合唱とテノールの入る大曲だ。この規模の大きな曲でも、プレトニョフの指揮は冴え渡った。楽々と東京フィルをドライブしていく。

第2楽章の「グレートヒェン」は、精緻を極めていた。東京フィルの各首席のソロや室内楽的な重奏が繊細で美しく夢のような音楽が奏でられた。しかし、陶酔の中にも、時折鋭い緊張が走るような瞬間もあり、ずいぶん長い時間に感じられた。

 

第3楽章「メフィトーフェレス」は、まるでプレトニョフ自身を見せられるようだ。変幻自在の表情が次々と浮かんでは消え、プレトニョフに翻弄される。音楽が静まるにつれて、左右から新国立劇場合唱団と、テノールのイルカー・アルカユーリックが、儀式に臨むように登場した。終結部の「神秘の合唱」が始まる。マーラーの《千人の交響曲》と同じ歌詞、「永遠にして女性的なるものが 我々を高きに導く」と高らかに歌われた。

 

 見事としか言いようのない演奏に、プレトニョフの力量を改めて思い知った。同時に、ビゼーでも感じたことを、今度も思った。プレトニョフのつくる音楽は、常にベールに包まれている。あまりにも美しい音楽は、どこか現実感が希薄で、人間味がなく、あやかしに陥れられているような居心地の悪さを感じる。プレトニョフの音楽の底にあるものは、一体何なのだろう。

 

 

ピエタリ・インキネン 日本フィル アレクセイ・ヴォロディン(ピアノ)

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1027日、サントリーホール)

ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」を弾いたアレクセイ・ヴォロディンが何と言っても素晴らしかった。抒情性のある気品ある響き、強靭さに裏付けられた繊細さと優しさ。それは、ベートーヴェンの音楽と一致している。特に第1楽章の長いカデンツァが圧巻だった。弱音から強音まで、ピアニスト、ベートーヴェンの矜持(きょうじ=自信と誇り)が感じられた。

 

アンコールのシューベルト「即興曲作品903」が絶品。最初の一音を聴いたとたん涙ぐんだ。清々しく、心に突き刺さる哀切。中間部は、ベートーヴェン的な強さも感じた。ヴォロディンの演奏は、貴族的と言ってもいい気高さに満ちている。

 

 インキネン、日本フィルによるベートーヴェン・ツィクルスの第2回目、交響曲第1番は、14型対抗配置。厚みのあるベートーヴェン。バロックティンパニに木のマレットを使用していたが、この分厚い音なら、モダンでも良かったような気がした。協奏曲では、10型の編成だが、モダンのティンパニを使用していた。

 

 活気に満ちた第4楽章が最も印象に残ったが、ヨーロッパ・ツアーから、帰国した時のホールトーンを生かした美しい響きが失われてしまっていることが残念だ。同じ演目を繰り返し演奏するツアーと異なり、毎週のようにプログラムが変わる演奏会で、毎回緻密な響きを創りあげることは難しいことはよくわかるが、力で押すのはなく(そうするとどうしても響きが濁る)、アンサンブルを整え、お互いの音を聴き合うような繊細さがあってもいいのでは、と思う。

 

 ドヴォルザークの交響曲第8番も、ダイナミックで分厚い音、推進力のある演奏。インキネンはプラハ交響楽団の首席指揮者でもあるが、民族的な表情はあまりなかった。ここでもやはり、もう少し繊細さがほしいと思う。

 

 ホルンに日橋辰朗がゲストで入り、第2楽章のホルンの強奏で、スケールの大きな吹奏を聴かせていた。日本フィルでいつも感心するのは、オーボエ首席の杉原由希子。彼女が吹く旋律はオーケストラの中にあっても、とびぬけて良く聞こえてくる。今日も、よく歌うオーボエが演奏の要となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セミヨン・ビシュコフ チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 スメタナ「わが祖国」

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1028日、サントリーホール)
  セミヨン・ ビシュコフ、チェコ・フィルのスメタナ連作交響詩「わが祖国」全曲。チェコ・フィルがビシュコフと共に、輝かしい新時代に入ったことを、高らかに告げる記憶に刻まれる名演だった。

 

 歴史が染み込んだプラハの街並みを思わせる、落ち着いて、少しくすんだ陰影の深い音は、まさにチェコ・フィルの響き。ビシュコフは、チェコ・フィルの身体に深く根付いた「わが祖国」の演奏伝統を生かし、彼らの「演奏したい」という気持ちに寄り添うように、チェコ・フィルの持てる力を実に巧に引き出した。チェコ・フィルは16型。コントラバスは正面横に8台並び、チェロは10台、下手前に配置された。ハープは左右に分かれた。コンサートマスターは、史上最年少でチェコ・フィルのコンサートマスターになったヨゼフ・スパチェクが務めていた。

 

 第1曲「ヴィシェフラド」(冒頭上手のハープの音色が力強く演奏された)と、第2曲「モルダウ」(2本のフルートの導入部分は、これしかないという確信に満ちた音だった)は、オーケストラの自主性に任せたような指揮のため、ビシュコフは少し遠慮気味に思えたが、「モルダウ」の最後は強烈に盛り上げた。

 

 第3曲「シャールカ」から、ビシュコフの指揮は一変し、地の底から溶岩が噴出するような熱い演奏が始まった。英雄的女性シャールカの主題を吹くクラリネット・ソロの雄弁で表情豊かに歌うソロは素晴らしかった。騎士スティラートを示すチェロの音がまたいい。二人の出会いを表すロマンティックな部分の甘い表情も弦の響きが深い。

ホルンの合図と共に始まる戦闘場面の強烈な盛り上がりも激しい。ここに来て、ビシュコフとチェコ・フィルの演奏にかける本気度がひしひしと伝わってきた。「シャールカ」が一気呵成に終わると、木管の首席が交替し、ホルン2本の増強があった。

 

第4曲「ボヘミアの森と草原から」の牧歌的な音楽では、チェコ・フィルの木管の陰りを帯びた音を堪能した。

 

第5曲「ターボル」は、安定した金管の分厚い響きで進む。トロンボーンに出る「ヴィシェフラド」の主題とターボルの主題が対位法的に交差する最後は、この夜のクライマックスだった。


 第6曲「ブラニーク」の冒頭の弦の刻みの重い響き、オーボエとホルンが交わす牧歌的な歌の柔らかな表情の美しさにも惹かれる。ホルンによる讃美歌が朗々と吹かれた後、戦闘場面となってからは、堂々とした音楽が展開された。「ターボル」と「ヴィシェフラド」の主題が交差する結尾は、文字通り感動的だった。

 

 

チェコ・フィルによる「わが祖国」は、1991112日サントリーホールでのクーベリック最後の来日公演での伝説的名演や、亡くなった2015115日、ビエロフラーヴェクがNHK音楽祭で指揮した演奏も聴いているが、それらと較べても遜色のない、勢いのある緻密な演奏だったと思う。

 

指揮し終わった後の、「やったね!」というような、ビシュコフの笑顔がとても良かった。ホルンをはじめ、ティンパニや打楽器、フルート、トロンボーン、トランペット、ファゴット、クラリネットと次々に奏者を立たせる仕草も、チェコ・フィルの楽員への感謝の気持ちがよく表れており、楽員との関係も非常に良いと思われた。

 

2階席後方からの怒涛のようなブラヴォはひさしぶりに聴いた。ビシュコフへのソロ・カーテンコールもあった。
LB席で聴いたが、LA席にチェコの人たちがグループで来ており、終演後小旗をチェコ・フィルの楽員に向け振っていたのが印象的だった。楽員も手を振って応えていた。

後で知ったが、1028日は、チェコの独立記念日で、第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した1918年に制定されたという。スメタナ「わが祖国」 が演奏される日として、ふさわしいタイミングでの演奏会だった。
 

写真:セミヨン・ビシュコフ() Umberto Nicoletti

 

イザベル・ファウスト アレクサンドル・メルニコフ(10月29日、王子ホール)

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 完璧なヴァイオリン。完璧な音程、楽譜の指示を寸分違わず、ミリ単位で再現する。音色は艶があり美しく、ダイナミックも幅広い。特に弱音が息を飲むほど繊細で、緻密だ。
 メルニコフのピアノも完璧だが、ファウストに較べると自由で大胆。二人は、長く一緒に演奏しており、息はぴったりだ。メルニコフのピアノだけを聴いていても、深い音楽性があり、満足できる。また彼のリサイタルを聴いてみたいものだ。
 
 ドビュッシー「ヴァイオリン・ソナタ」が素晴らしかった。フランス語の詩が聞こえて来るような、柔らかくニュアンスに富んだフレーズが次々に繰り出される。特に第1楽章中間部が絶品。ピアノの三拍子をバックに、ヴァイオリンが万華鏡のように変化していった。曖昧さは皆無なドビュッシーだった。
 
 2曲目は、バルトーク「ヴァイオリン・ソナタ第1番」。演奏時間40分近い大作。バルトークの民族的音楽が、もっと前衛的な方向に向かった作品だと言われる。これまた、唖然とするばかりに完璧に弾いた。野性的な部分は野性的に弾き、思索的な部分では、小説を読むような物語性、哲学的なメッセージを感じた。
 
 ファウストのヴァイオリンは、ドビュッシーもバルトークも、すべて知的に細部まで吟味され、コントロールされている。ただ、それがあまりにも完璧で、その場の勢いや霊感で即興的に演奏されるものではないため、聴いていて、心が躍るとか、胸が熱くなる、という気持ちにはならない。全てが計算され設計図通り組み立てられているような印象がある。
 
 後半最初のストラヴィンスキー「デュオ・コンチェルタンテ(協奏的二重奏曲)」は、その点ファウスト向きの作品であり、精緻な演奏を楽しむことができた。
 
 最後のフランク「ヴァイオリン・ソナタ」は、この作品にある濃厚な「愛の感情」は感じられなかった。楽譜にあると思われる指示をきちんと再現し、全てが見通せるような完璧な演奏に圧倒され、感心したが、感動は少ない。冷たい演奏ではないけれど、まったく揺るぎのない、大理石の精緻な彫刻を仰ぎ見るような演奏だった。
 
 アンコールは、珍しい曲でストラヴィンスキーが書いたオペラ・ブッファ「マヴラ」から「ロシアのうた(ロシアの乙女の歌)」が弾かれた。ロシアの民謡風旋律だが、どこか哀しく可笑しい雰囲気がとても面白かった。

ドーリック弦楽四重奏団(10月31日、紀尾井ホール)

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 ドーリック弦楽四重奏団は、1998年結成。2008年大阪国際室内楽コンクールで優勝して注目を集めた。今やイギリスを代表するカルテットのひとつとして活躍。ウィグモアホールでは定期的にコンサートを開くとともに、2017年カーネギーホールのデビューも果たした。

(メンバー:写真左から、アレックス・レディントン/1ヴァイオリン、イン・シュエ/2ヴァイオリン、ジョン・マイヤーズコフ/チェロ、エレーヌ・クレマン/ヴィオラ)

 

初めて聴いたが、第2ヴァイオリンとヴィオラが女性ということもあるのか、イギリスの国民性なのか、音が柔らかく、優しさと温かみのある演奏から、品の良いバランスの取れたカルテットという印象を受けた。

 

1曲目、優雅でのんびりとした雰囲気のハイドンの「弦楽四重奏曲第38番《冗談》」は、そういう彼らによく似合う。終わりそうで終わらないユーモアのある第4楽章最後は、とても楽しかった。

 

ブリテンの最後の作品、「弦楽四重奏曲第3番」は初めて聴いたが、演奏の良さもあり、感動的だった。第3楽章はメシアンのようだと、プログラム解説にあったが同感。メシアン「彼方の閃光」の終曲《キリスト楽園の光》を思わせる出だし。中間部の様々な鳥が鳴き合うような部分は、天使たちが、声を交わし合うようでもあった。

第4楽章、第5楽章は、まさにマーラーの交響曲第9番の第3楽章ブルレスケと、この世に別れを告げるような第4楽章に重なる。第4楽章はブルレスケの激しいリズムを思わせる。第5楽章のパッサカリアでひかれるチェロの規則的なリズムは、この楽章を書くためにブリテンが宿泊したヴェネツィアのホテル近くの聖堂の鐘を模したと言われるが、心臓の鼓動を思わせるようでもある。消え入るように終わる最後も、マーラーに通じる。ドーリック弦楽四重奏団の丁寧で、きめ細かな表現は素晴らしかった。

 

最後はベートーヴェンの大作、「弦楽四重奏曲第13番《大フーガ付き》」も、第1楽章力は強さもあるが、全体的に丁寧で、細やかな演奏。第2、第3楽章は、主題を繊細な表情で弾き、優しいベートーヴェンの顔が浮かぶよう。第5楽章「カヴァティーナ」もそうした繊細さが最大限に生かされた。ppの中間部の天国への階段を上がって行くような安らぎに満ちた旋律が美しかった。

第6楽章《大フーガは》、力で押すのではなく、しなやかにそれぞれの奏者が自分のパートで、充実した音を奏でた。激しくないぶん物足りないと感ずる人もいるかもしれないが、バランスが良いので、音が濁らず、各パートが明解に聞こえてくる点はとても良かった。

 

 

アンコールに、第5楽章「カヴァティーナ」がもう一度演奏された。NHKBSの収録があり、来年1月「クラシック倶楽部」で放送される予定。

写真:()George Garnier

 

 

ラザレフ 日本フィル グラズノフ、ストラヴィンスキー(11月1日、サントリーホール)

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 ラザレフ指揮日本フィル のグラズノフ「交響曲第6番」は何と良く鳴ることか。ラザレフは、呼吸するみたいに、自由自在に、無理なく輝かしく色彩にとんだ響きを作り出す。作曲者と一体になったラザレフの指揮は説得力がある。
 
 ストラヴィンスキー「火の鳥」全曲は、さらに洗練された響きを作り出した。弱音部分がとても繊細で、表情がきめ細かい。決して勢いだけの指揮ではない、緻密な指揮だと、改めて感じ入った。極彩色の細密な絵巻物を見るようだった。
 日本フィルは、フルート、オーボエ、ファゴット、クラリネットの木管を初め、ホルン(首席は先週に続き日橋辰朗)が、安定したソロを聞かせた。ティンパニなど打楽器も良かった。
 
 ラザレフは、日本フィルにとって宝物のような指揮者だと思う。桂冠指揮者・芸術顧問として、引き続き活躍してほしい。

ヤニック・ネゼ=セガン フィラデルフィア管弦楽団 リサ・バティアシュヴィリ

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114日、サントリーホール)

リサ・バティアシュヴィリ。ヴァイオリンの新女王誕生。ネゼ=セガンが演奏後彼女の前に、「女王様」とでも言うように、ひざまずいたのも、自分の感想と一致するようで納得できた。

 

光沢のある華やかな黄色のドレスに身を包み、ヴィブラートたっぷりに艶やかな美音を聴かせるアンネ=ゾフィー・ムターが昼の女王としたら、漆黒のドレスで、求道的に弾くバティアシュヴィリは、夜の女王かもしれない。それくらい対照的なヴァイオリンだった。

 

チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」を弾いたバティアシュヴィリの禁欲的で、くっきりとした隈取りのある、全ての音に神経を通わせた演奏には、陶酔よりも覚醒させる要素が感じられた。甘さや妖艶さという要素は少ないが、作品に深く踏み込む姿勢が感じられた。

 

息を呑んだのは、その繊細なピアニッシモ。弓が弦に触れるか触れないかという弱音がホールの隅々に美しく響いていく。第2楽章出だしの第1主題は、その典型だった。第1楽章カデンツァでは、信じられないほど、細やかに変わって行く表情や、多彩なフレーズを駆使した表現力に圧倒された。激しく技巧的に弾かれるカデンツァが、これほど深い内容を伴って弾かれたのは、初めて体験する。バティアシュヴィリは、どんなに激しく弾いても、土台がぶれない。第3楽章は、オーケストラに負けない強さを維持して、堂々と進めていった。

 

ネゼ=セガンとフィラデルフィア管弦楽団は、バティアシュヴィリを温かく細やかな演奏で、もり立てる。第1楽章序奏は、フィラデルフィア管のヴィオラ、チェロ、コントラバスといった中低音の弦が、ぐいぐいとした勢いのある音を奏でる。その推進力は素晴らしい。ヴァイオリンは一人一人の奏者が、バティアシュヴィリの音を聴きながら演奏しているように思えるほど、細やかに表情をつけていた。

 

フィラデルフィア管の音からは、昔オーマンディの指揮で聴いたレコードの音を思い出した。オーマンディとフィラデルフィア管は70年代の来日公演を二度聴いたが、艶やかで華やかなフィラデルフィア・サウンドが、今も引き継がれていることを実感した。

 

 

後半のマーラーの交響曲第5番は、予想どおり、いかにもアメリカのオーケストラという絢爛豪華な音に彩られていた。どこまでも明るく楽天的で、機能的に緻密な見事なオーケストラ演奏が、披露された。

 

トランペットによる出だしの主題は素晴らしかったが、再現で珍しく一音はずしたのが人間的に思えた。金管のうまさは、海外の一流オーケストラに共通するが、フィラデルフィア管も同様だ。第3楽章スケルツォのホルンのソロは聴きごたえがあった。

 

楽章コーダの輝かしいクライマックスは、スーパー・パワーとも言うべきフィラデルフィア管の能力が全面的に発揮され、オーケストラが持つ機能のすべてを、聴く思いがした。しかし、「感動したか」と聞かれたら、「感動」はなかった。マーラーの暗さ、哀感、皮肉は、あまり感じられなかった。オーケストラ演奏としては、技術的に究極の形だとしても、それだけでは音楽のもつ魔法のような世界には、達しないのではないだろうか。

 

今日の演奏の中で、最も心に響いたのは、第4楽章アダージェット。フィラデルフィア管の弦の素晴らしさに、心の底から酔いしれた。磨き抜かれ、艶々と光耀く、しっとりとしたビロードのような音。これこそ、フィラデルフィア・サウンドの真骨頂だ。この音を体験できたことは、バティアシュヴィリのヴァイオリンとともに、この日最大の喜びだった。
 

リサ・バティアシュヴィリ©Chris-Singer フィラデルフィア管弦楽団© Chris Lee

 

ヤニック・ネゼ=セガン フィラデルフィア管弦楽団 ハオチェン・チャン(ピアノ)

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115日、東京芸術劇場コンサートホール)
 ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」を弾いたハオチェン・チャンのピアノは折り目正しく品が良い。パワフルではないので、オーケストラの強奏に埋もれがち。どんなピアニストでも、この曲は実演ではそうなるのでよくわかるが、やはり線が細いという印象を受けた。

ネゼ=セガン、フィラデルフィア管弦楽団は、分厚い弦の響きで期待通りだが、昨日のバティアシュヴィリのときほどの感銘は受けなかった。チャンの演奏にそれほどインスパイアされていないのかもしれない。

 

聴衆は、昨日同様、咳一つ聞こえない集中ぶりだが、拍手は普通。アメリカから同行しているサポーターは、立ち上がる人もあり盛り上がっていた。

チャンのアンコールは、ショパンのノクターン第2番。上品で、詩情もあるが、もう一つ深く心に入って来ない。趣味の良いピアニストだとおもうが、会場のせいなのか?席は1階13列目中央なので、ピアノを聴くには問題ないと思うけれど、2階のほうがピアノの音が上がってきて良いかもしれない。

 

後半はドヴォルザーク「交響曲第9番《新世界より》」。ドヴォルザークがアメリカという新天地で刺激を受けて書いた勢いのある作品は、フィラデルフィア管弦楽団とネゼ=セガンに、ぴったり。引き締まり、活力がある演奏だった。

 

1楽章終結部でコントラバスが弾く第1主題が、地を震わすように、良く聞こえてきたのは初めてだ。提示部の繰り返しはなかった。第2楽章では、イングリッシュ・ホルンを始め、フルート、オーボエ、クラリネットのソロが温かい音色で癒された。楽章最後の弦楽四重奏も柔らかな響きがあった。

第3楽章スケルツォは躍動感があり、力強い。二つのトリオの木管のハーモニーもうつくしいが、民族色はない。第4楽章は、金管のパワーが全開。伸びのよい痛快なホルンやトランペット、トロンボーンの音が気持ちのよいほど鳴り渡る。最後のホルンはわりと長く伸ばして、余韻を残していた。3日の京都に続き、3日連続のコンサートのためか、昨晩のマーラーに較べると、オーケストラに少し、疲れがでているように感じた。

 

拍手の中、ネゼ=セガンは、マイクを持ち、通訳を兼ねた日系の第2ヴァイオリン奏者(*注)と一緒にステージ前に出て、『音楽は困難な時にも、人々をひとつにしてくれます。ラフマニノフのヴォカリーズをこのたびの台風と大雨で被災された方々に捧げます』と前置きし演奏した。オーマンディとの録音もあり、フィラデルフィア管弦楽団にとっては縁の深い曲。聴いていると、フィラデルフィア管弦楽団の楽員の温かな心と音色が一つとなっていることに気づかされた。同時にこのオーケストラの持つ音色の理由がわかる気がした。


*注)彼女はロビーコンサートの弦楽四重奏のリーダーも務め、演奏前に、台風と大雨の被災者の方々に捧げます、と挨拶していた。2曲目に「ふるさと」が弾かれたが、1曲目は曲想からメンデルスゾーンかな、と思って演奏後彼女に聞いてみたら、「よくご存じですね」と言われたが、何番か聞くのを忘れてしまった。


写真©Chris Lee

 

 

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 アンドレス・オロスコ=エストラーダ イェフィム・ブロンフマン

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団@ミューザ川崎シンフォニーホール。
アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮、イェフィム・ブロンフマン(ピアノ)。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、ブロンフマンとウィーン・フィルの繊細なコラボレーションが息をのむほど素晴らしかった。
エストラーダのストラヴィンスキー「春の祭典」は、しなやかさがあった。

レヴューを「音楽の友」1月号に書きます。

 

 

 

 

 

マエストロの白熱教室 指揮者・広上淳一の音楽道場

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1110日、青葉区民文化センター フィリアホール)
出演 広上淳一(指揮)、永野風歌(司会)

東京音楽大学指揮科学生(指揮)

東京音楽大学器楽科学生によるオーケストラ

 

今回で7回目となる、指揮の公開レッスン。課題曲は、ブラームスの交響曲第2番。緻密に書かれた作品は、教材としては最高だ。前半と後半に別れ、各楽章を生徒が指揮。それを広上や、東京音大の先生が講評、広上が指導する。

午後1時からの開演に遅れ、途中から参加することになった。係員に誘導され2階のステージ横に座る。指揮者の表情を見るにはちょうどよい。

 

ちょうど若い女子学生Hさんが指導を受けていた。課題は、第4楽章。喜びが爆発するエネルギーに満ちた楽章だ。第1主題のあとの練習番号Aから、やり直しを言われていた。広上が、どういうつもりで、ここを指揮しているのかを問うと、彼女は大きなイベントのまえのウキウキした前日の気持ちが、当日に爆発するようだと答える。じゃあ、ワーッと叫んでごらんと言われ、叫びなから指揮すると音楽に勢いがでた。分かりやすい指導だ。

 

次の生徒はSさん。何と50歳のベテラン。ポーランドで行われた指揮者コンクールで入賞し、自信がついたのか、堂々とした指揮ぶり。音楽に重みがあり、本格的だ。講評も「オーラがある」「こういうのを化けたと言うんだね」と好評だった。広上は、譜面を閉じて楽員とアイコンタクトを増やすこと。下を見ないてティンパニのあたりの上を見るようにと指導していた。慣れてきたことが「負」になるので気をつけるように、というアドバイスも受けていた。

 

次の生徒も60代の男性のHさん。某テレビ局に勤務していたとのこと。コントラバスと指揮の両方をしている。たんたんとした指揮で、動きは激しくない。最後のコーダで、タメをつくったのには、驚かされた。結構自分を出している。音楽的には、ひょうひょうとしていて、全体に音楽がただ流れているだけ、という印象。

 

広上は、司会の永野風歌に「どう思う?」と聞く。彼女は「本当に音楽が好きなのか」とシビアな発言。ちなみに永野も指揮を勉強しながらタレント活動を行っている。他の先生方も「考えすぎ」「アイデアが伝わってこない」と厳しい。

広上は、「エリート大学を出てエリート会社に入って、もくもくと働いた方。学生たちと一緒に帰るなど、いいひとだと思う。」と彼を擁護するようだった。

ただ一方で「19世紀の巨匠のような力の抜けた指揮だが、それは実力があるから、できること。いまは大汗かいて必死にやるとき。衣服を破り捨てて、裸になって指揮すべきだ」と厳しい言葉もつけ加えた。Hさんは、「指揮者が力んでもそのとおりの音にならないのでは」と反論。よく言えるなあ、とこれもまたびっくり。

広上は「Aで飛び上がって指揮してごらん」と指示、Hさん、上着を脱いで気合を入れると、場内から拍手が沸いた。果たして、実際にHさんが飛び上がると、音楽は勢いが出た。殻を何度も破って脱皮しないと、いい指揮者にはなれないのかもしれないと感じた。

 

ここで休憩。

後半は、私の友人でもある方が2人出た。仮にK君とHさん(女性)とする。K君は、卒業が決まっている。Hさんはピアニストとしてはプロとして活動しており、指揮もプロと言っていい人だ。課題は第3楽章アレグレット・グラチオーソ。のんびりした楽章だが、テンポの速くなったりもどったりという変化があり、簡単とは言えない。

K君の指揮は、なかなか良かった。落ち着いた指揮ぶりであり、よくまとまっていて、年季が入っていることを感じさせる。

 Hさんは、さすがの指揮だった。音楽が細やかだ。フレーズも丁寧に指示していたし、オーケストラとのコンタクトもよく出ている。音楽の中身は、一番あったのではないだろうか。

二人の間にI君と言う人が指揮した。たんたんとした指揮であまり表情がない。

 

 三人への講評はなかなか良い。ある先生は「3人とも自分の良さが出ていた。このまま伸ばしていけばいい」と高評価。広上は、I君に対して「前よりリラックスできるようになった」と褒めた。このあと、リーダーになるということは、自分の言葉を相手と共有できるようになること、相手が自分の言葉を理解できるようにすること、など指揮者にとって必要なコミュニケーション能力の話が続いた。

 

 

 最後にロシア人のAさんが第2楽章を、最後に3人が第1楽章をリレーしながら、指揮した。

 4人ともソツなく指揮をしていた。広上はロシア人のAさんに、最後のコーダの間の取り方を丁寧に教えていた。

 

 最後に講評したN響コントラバス奏者、池松先生の言葉が、今日一番共感できた。
『テクニックに関しては今すぐプロオケを振っても大丈夫だが、テクニックばかりに目が行き、みなさんに一番足りないのは、イマジネーションとファンタジー。以前ベルリン・フィルの首席フルート奏者、エマニュエル・パユの後ろで演奏したことがある。パユが最初の一音を吹いただけで、目の前に緑の草原の光景が広がった。パユが講習会で生徒にジョリベのフルート協奏曲のレッスンをしていて、生徒にサルの声をまねてごらんと指導していた。生徒がキーキーと言うと、違う、と言って本物のサルのような鳴き声をつくってみせた。指揮者には、そうした強烈なイメージが一番必要だ。』

 

 私自身の感想は、今日のような教室は何のためにやっているのか?という点につきる。指揮のテクニックなのか、コミュニケーションの方法を学んでいるのか、あるいは、実際にオーケストラを人前で指揮することで、自分の殻を破るのか?

 私ならそうしたテクニカルなことではなく、スコアをどう読むのか、という解釈を優先させる。オーケストラの縦の線を合わせたり、オーケストラをひっぱるためのテクニックではなく、スコアのうしろにあるもの、歴史的、文化的伝統や、作曲家がそのフレーズや旋律に込めたものをどう読むか、を伝えたい。こうした観点は、最後に発言した先生とかぶる部分だと思う。

エリアフ・インバル 東京都交響楽団 ショスタコーヴィチ「交響曲第11番《1905年》」

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1111日、東京文化会館大ホール)
 チャイコフスキー「幻想曲《フランチェスカ・ダ・ リミニ》」の中間部は、ロマンティックにたっぷりと鳴らすことはなく、劇的だが、感情が掻き立てられるということがない。悲劇的な最後の和音の連打は鋭い響きで、きっちりと音楽を締めくくるという印象。

 

ショスタコーヴィチ「交響曲第11番《1905年》」は、冒頭のハーブと弦の合奏を聴いただけで、ショスタコーヴィチらしい沈痛な世界が広がった。インバルの情感を抑えた指揮は、ショスタコーヴィチの音楽の冷徹な側面に合っており、彼のブルックナーやマーラーよりも好きだ。

 

ただ、期待が大きかった分、今日の演奏はほぼ予想通りの範囲内に収まっていた。都響もトランペットやホルンの一部が珍しく不安定だったり、アンサンブルの精度や迫力は、2013323日に聴いた第4番に較べれば、劣るように思えた。そのときは1階ステージに近い席であり、今日は2階正面という距離感の違いもあったので、単純な比較はできないが。


 第2楽章「1月9日」の冬宮前広場での一斉射撃に倒れる人々の惨劇も、戦慄するまでには至らなかった。逆に言うと、インバルの指揮はよくコントロールされていたとも言える。チェロとコントラバスの低音は、ふだん数多く聴く1階席よりも分厚い音がよく響いてきた。

 

第4楽章「警鐘」の革命の犠牲者を悼む「脱帽せよ」の主題の咆哮とともに、鐘が打ち鳴らされる終結部では、鐘が鳴り終わると同時に、奏者は手で響きを止めた。余韻になかで終わる演奏も聴いてみたいものだ。

 

16日土曜日のショスタコーヴィチ「交響曲第12番《1917年》」が、どういう演奏になるのか、楽しみにしたい。

写真:©東京都交響楽団



 

新国立劇場 ドニゼッティ「歌劇《ドン・パスクワーレ》」 

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1113日、新国立劇場オペラパレス)
指揮:コッラード・ロヴァーリス

演出:ステファノ・ヴィツィオーリ

美術:スザンナ・ロッシ・ヨスト

衣裳:ロベルタ・グイディ・ディ・バーニョ

照明:フランコ・マッリ

演出助手:ロレンツォ・ネンチーニ

 

■キャスト

ドン・パスクワーレ:ロベルト・スカンディウッツィ

マラテスタ:ビアジオ・ピッツーティ

エルネスト:マキシム・ミロノフ

ノリーナ:ハスミック・トロシャン (キャスト変更)

公証人:千葉裕一

 

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

合唱:新国立劇場合唱団

 

適役の歌手たち4人が勢揃い。歌も演技もうまく、楽しい舞台。指揮者もノリの良い。いくつかの美しい旋律や、ベル・カント(無理のない自然な美しい声で旋律をレガートに歌う)の流れるような歌唱や重唱は、美しいものがあったが、あまりにもたわいのない物語と結末に拍子抜けしてしまう。ドニゼッティの音楽もきれいだが、このオペラでは、あまり深みは感じられない。

 オペラ・ブッファ(喜劇的オペラ)なのだから、深く考えず、楽しめばいいのでは、とも思ったが、ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」や、ロッシーニの歌劇など、一見軽いけれど、その裏側にある哀感のような深みも感じられなかった。

 終わったあと、少しほのぼのとした気持ちも残ったが、そうしたものも、充実感のなさの前には、儚く、泡のように消えてなくなってしまった。

 

歌手は粒ぞろい。ドン・パスクワーレのロベルト・スカンディウッツィは、役にぴったり。マラテスタのビアジオ・ピッツーティは、フィガロさながら機知の効いた演技と明るい歌唱。エルネストのマキシム・ミロノフの声も抒情的で、線は少し細いが、ナイーブなエルネストの役によく合った美声だった。ノリーナのハスミック・トロシャンの少しキンキンとしたコロラトゥーラは、ドン・パスクワーレを、やりたい放題にいじりまわす意地悪な役にこれまたぴったり。見た目の美しさもノリーナのイメージ通り。第3幕「夜想曲」でのミロノフとトロシャンの二重唱は、美しかった。

 

指揮のコッラード・ロヴァーリスは紳士然とした外見通り、颯爽とした棒さばきだった。東京フィルの演奏は、もう少し洗練された滑らかな音もほしいと感じた。

写真©新国立劇場

 

 



 

 



 

「音楽の友」12月号(11月18日発売)記事ご紹介

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「音楽の友」、12月号がもう届きました(店頭は18日)。
今月はジョナサン・ノット東京交響楽団「グレの歌」、ジョヴァンニ・ソッリマのインタビュー、ラルフ・ワイケルトサイン会とインタビューレポートなど、書いています。お読みいただけたらうれしいです。

 

 

 


エリアフ・インバル 都響 ヨゼフ・シュパチェク(vn) ショスタコーヴィチ・プログラム

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1116日、東京芸術劇場コンサートホール)
 ヨゼフ・シュパチェクのソロを聴くのは3年ぶり。前回も都響で、指揮はヤクブ・フルシャだった。6年前は武蔵野市民文化会館小ホールでリサイタルも聴いた。1986年生まれだから、今年33歳。2011年、弱冠24歳でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の史上最年少コンサートマスターに抜擢された。カーティス音楽院でジェイミー・ラレードに、ジュリアード音楽院でイツァーク・パールマンに師事という経歴が物語るように、外向的で明るく美音が滴るようなそのヴァイオリンは聴衆を楽しませるツボを心得ており、エンタテインメント性に富んでいる。ヴァイオリンは武蔵野ではジャン・バティスト・ビョームだったが、今回は1732年製グァルネリ・デル・ジェス"Le Brun; Bouthillard"を使っていた。

 

フルシャとのドヴォルザーク「ヴァイオリン協奏曲」は、少し線が細い印象があったが、今回はたくましさが増していると思った。ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲」は、インバル都響がこれぞショスタコーヴィチという厚みのある、たっぷりとした土台を作る。インバルの揺るぎない指揮のもと、シュパチェクは弾きやすそうに、のびのびとソロを奏でた。

 

シュパチェクのヴァイオリンは、美音で艶やか。重音も力強い。第1楽章は、もう少し深みも欲しかったが、第2楽章スケルツォのにぎやかな行進曲が始まると、シュパチェクの演奏は俄然熱気を帯び、インバル都響と共にコーダを盛大に盛り上げた。
第3楽章パッサカリアのカデンツァは、シュパチェクの気迫が感じられた。雄弁で雄大なスケールがあり、彼が進化を遂げていることを実感した。そのまま第4楽章ブルレスケに突入すると、インバル都響と一体となって、凄まじい勢いを加えて最後を弾き切った。

コーダはインバルと都響ともども、もう少し激しくできたのではとも思うが、余裕を感じさせるほど、実力をつけたとも言える。アンコールは、リサイタルでもよく弾くイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番第2楽章「田舎の踊り」。素朴な旋律から始まるが、後半は超絶技巧の連続。

シュパチェクがソロとチェコ・フィルのコンサートマスターの二足のわらじを十全に果たしていることは素晴らしい。

 

インバル指揮のショスタコーヴィチ「交響曲第12番《1917年》」は、11日東京文化会館で聴いた「第11番1905年》」よりも好印象だった。ホールの違いが大きいと思う。残響の少ない文化会館の2階と、芸劇115列目では、後者がはるかに生々しく聞こえる。協奏曲同様、チェロとコントラバスの低音の厚みと重心の低さが際立ち、それ以外の弦も、分厚い響きをつくる。加えて木管のまとまりのよさ、ホルンやトロンボーンはソロも合奏も素晴らしい。テューバも大健闘。ティンパニも重みがある。インバルのタクトのもと、都響がひとつにまとまっていることを感じた。コンサートマスターは山本友重。

 

インバルはやや速めのテンポで、一気に進んで行った。第1楽章「革命のペトログラード」冒頭のチェロとコントラバスの低音が奏でる中心主題は重戦車のよう。オーケストラの総奏の厚み、ヴォリュームも素晴らしい。第2楽章ラズリーフのホルン・ソロとトロンボーンの荘重なソロも良かった。第3楽章「アウローラ」の弦セクションの独特のリズムの刻みの厚みも充分。盛り上がって進んだ終楽章は、それまでの3つの主題と終楽章の主題が一体となって、輝かしいクライマックスをつくった。

ただ、ここでも、「もっとできたのでは」という要求が頭をもたげた。インバルは勢いにかられて限界を超えることはない。最後まで冷静にオーケストラをコントロールしているようだった。巨匠の懐の深さを感じさせる、余裕のある指揮ぶりだった。インバルへのソロカーテンコールが今日もあった。

ジョナサン・ノット 東京交響楽団 マーラー「交響曲第7番《夜の歌》」(川崎定期演奏会第72回)

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1117日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

 ベルク「管弦楽のための3つの小品」は、切れ味の良い、精緻で色彩感のある名演。ノットのタクトに応えるべく、東京交響楽団の一人一人がベストをつくしていることが伝わってくる。

  第1曲<前奏曲>のラヴェル《ラ・ヴァルス》を思わせる冒頭から、すぐ全く異なる心が締め付けられるような世界に入っていく。同時に、時代の最先端の音を作りあげようとするベルクのエネルギーと意欲、マーラー共通するロマンティックな精神や時代の空気や不安も感じられる。

 

第2曲<舞踏>の奇妙なワルツに続き、第3曲<行進曲>のいびつなマーチでは、強烈な響きと、行方のしれない静謐さが交互に現れ、聴き手の神経も研ぎ澄まされていくようだ。
 

ノットと東京交響楽団の演奏は、三つの曲からなる全体の起承転結が明確で、ドラマ性があり、どの部分を切り取っても中身がぎっしり詰まっている。

 

ベルクであれだけ集中した後、マーラー「交響曲第7番《夜の歌》」でも、演奏の集中が途切れることなく、長大な作品の隅々まで、ノットの神経が通っていた。ノットの指揮に応える楽員の力演を称賛したい。

 

第1楽章のテナーホルンのソロは常に朗々と力強く吹奏された。またホルン首席のソロも素晴らしく、演奏全体の大きな柱の役目を果たしていた。演奏後ノットがそれぞれの奏者を立たせると、聴衆から熱狂的な拍手が起きたのも当然だと思う。

 

ノットはマーラーの多様性を徹底的に極めようとしているのではないかと思った。作品の様々な表情や音色、雰囲気と感情、民族的なフレーズなど、一つ一つ丁寧に描いていく。そうした緻密な指揮は、第2、第3、第4楽章で、特にその本領を発揮していた。

第2楽章冒頭の2本のホルンの重奏や、第1トリオでのチェロの滑らかでやわらかな音、第2トリオの2本のオーボエの合奏は見事。
 第3楽章の不気味なワルツの刻々と変化していく表情も細やかだ。

第4楽章「夜曲」のコンサートマスター水谷晃の美しいソロに続く、ギターとマンドリンとともに繰り広げられる繊細な世界には親しみを感じた。

 

第1楽章と第4楽章では、次は何が起こるかわからないノットの即興性にあふれた指揮にワクワクする。デュナーミクの大きな強烈で切れ味の良い響きから生まれる音楽は、文字通りスリリングだった。編成は対向配置の16-16-12-10-8だっただろうか。第5楽章終結部の高揚感は、生演奏でしか起こりえないような、凄みがあった。


 ミューザ川崎シンフォニーホールの聴衆の集中ぶりも素晴らしく、しわぶきもほとんどない。終わった後のブラヴォもすごかった。ノットへのソロ・カーテンコールは恒例となっているが、今日は本人も演奏に満足したのか、長い間ステージに残り、聴衆の拍手や歓声にこたえていた。

 

ズービン・メータ指揮ベルリン・フィル (11月19日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

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メータの温かい音楽に感動。
R.シュトラウス「交響詩《ドン・キホーテ》」は、チェロのクヴァントとヴィオラのクロスはもちろん、
ソリスト集団のようなベルリン・フィルのずば抜けた音楽性が発揮された名演。

ベートーヴェン「交響曲第3番《英雄》」は、雄大で滋味深い演奏。
ベルリン・フィルの弦の素晴らしさに驚嘆。
詳しくは「音楽の友」にウィーン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管とともに、
ミューザでの三大オーケストラとしてレポートを書きます。

 

 

パーヴォ・ヤルヴィ ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 ラン・ラン

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(11月22日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団はバランスの良い品格のあるオーケストラ。艶々とした弦、まろやかな木管、奥行きのある金管。ラン・ランのベートーヴェン、ピアノ協奏曲第2番は、ラン・ランワールドに誘われた。第2楽章最後の微弱音は妖精の涙のよう。アンコールの「エリーゼのために」は、その妖精が舞い降りてきたかのようだった。ヤルヴィのブラームスは、筋肉質の引き締まった演奏。詳しくは、「音楽の友」のレポートに書きます。
 

中井恒仁&武田美和子 ピアノデュオ・リサイタル

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1121日、東京文化会館小ホール)

 デュオ結成20周年、新譜CD(第九)発売記念コンサートにふさわしい多彩なプログラム。

前半は、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」。二台のピアノは向き合って重なるように置かれる。武田美和子が弾く上手奥のピアノの蓋は開けられ、反響板の役目を果たす。中井恒仁が弾く下手手前のピアノの蓋は外されている。

 

二台のピアノの前には、加藤知子(Vn)、佐々木歩(Vn)、佐々木亮(Va)、長谷川陽子(Vc)、吉田秀(Cb N響首席)、神田寛明(Fl N響首席)、亀井良信(Cl)、小島光(Perc)、腰野真那(Perc)という錚々たるメンバーが座った。この編成は初演のさいのオリジナルのもの。

 

ゲストが皆うまいので楽しい。コントラバスの吉田秀の第5曲「象」の惚れ惚れするようなあざやかな腕前には驚嘆。彼の弾く誰かのコントラバス協奏曲(たとえばクーゼヴィツキー)を、ぜひ聴いてみたいものだ。

 

 第9曲「森の奥のカッコウ」では、クラリネットの神田寛明が、ドアから入ってきて、客席内を歩きながらカッコウの鳴き声を吹く。森にこだまするカッコウの鳴き声の雰囲気がとてもよく出ていた。神田は二曲目が終わると舞台袖に消えたので楽器の調子でも悪いのかと思っていたら、そういうことだったのかと苦笑。まじめそうに歩きながら吹く神田を見て、笑いを必死にこらえている吉田の表情が可笑しい。

 

 第7曲「水族館」では、腰野真那が叩くグロッケンシュピールの音色が美しかった。

 第11曲「ピアニスト」では下手に弾いているようで、実はとても音楽的に聞こえるのが面白かった。第13曲「白鳥」では2台のピアノをバックに長谷川陽子が優美なチェロを披露していた。

 

後半は、CDを発売したばかりのリスト編曲による2台ピアノによるベートーヴェン「交響曲第9番」。録音で聴くよりも、音の幅が広くダイナミック。二人の動きが生演奏ではよくわかる。

 

基本的に武田美和子が主に高音部を担当、中井恒仁が中低音部を担当する。きらびやかでメリハリのある武田のピアノと、落ち着いて控えめながら、重厚な響きも併せ持つ中井のピアノの音色が、バランスよくブレンドされていく。

 

 

「ぶらあぼ」の仕事で二人にインタビューをしたため、2台ピアノによる第九のCDを何度も聴きかえしたこと、また二人から演奏の工夫やリストの編曲の素晴らしさも教えてもらったことが、今回のコンサートを楽しむために役立った。

 

二人は「リストの編曲がすばらしく、何十人ものオーケストラよりもシャープに動けるピアノならではの良さがある」と語っていたが、第4楽章の合唱の二重フーガのアクロバティックなやりとりは、合唱やオーケストラがどう重なっているのか、立体的にわかって興味深いものがあった。

 

音がすぐ消えてしまうピアノで、歌や合唱の長い旋律線をどう弾くのかという点について「こういうタッチだったら音が伸びて聞こえるのではないかと常に意識します。」と武田が答えてくれたが、その言葉通り、コンサートでもピアノが歌う歌の美しさに何度も心を動かされた。たとえば、330小節目の感動的な「Vor Gott」のフェルマータも、よく音が伸びて聞こえ、感動的なクライマックスをつくっていた。

最後のソリストの四重唱も2台のピアノは交互に流れるようにフレーズをつないでいく。ここはリストの編曲も素晴らしいと思った。

 

 

最も感動的だったのは、第916小節目からの合唱が、Freude, schöner Götterfunken (喜びよ、神々の美しい火花よ)と壮大に歌い上げる最後のクライマックス。巨大な大波が次々に押し寄せるようなスケールの大きな演奏に、ピアノという楽器の持つ表現力のすごさを思い知らされた。

 

写真:©Toshiaki Yamada

 

 

 

 

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