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レオシュ・スワロフスキー(指揮) 東京都交響楽団 《第九》(12月24日・サントリーホール)

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 《第九》で指揮者が感激の余り泣くのを初めて見た。スワロフスキーは終わったとたん、顔を覆って泣いていた。確かに、終楽章の白熱した高揚は、これまで幾度となく聴いてきた《第九》の中でも、筆頭にあげても良いかもしれない。

 

  しかし、その高揚は、そこに至る過程があったからこそ起こり得たと思う。つまり、スワロフスキーのヨーロッパの伝統を感じさせる正統的な指揮が、ベートーヴェンの書いた音楽を忠実に再現していき、ベートーヴェンが意図したとおりに着実にエネルギーを蓄え、最後の最後になって、一気に蓄えたエネルギーを開放した結果、スワロフスキーの予想以上の熱い演奏になったのではないか。

最後になって、舞台の上の出演者全員が、何か見えないものに後押しされるような、信じられない力を発揮したのではないだろうか。スワロフスキー自身もその信じられないほどの高揚に驚き、感動し、思わず涙が溢れだし、顔を覆ったのだと思う。それは、生演奏でごくまれに起こる瞬間だった。

 

スワロフスキーはピアニッシモを大切にして、きめ細やかに音楽をつくっていった。解釈は、オーソドックスであり、思い入れや誇張はなく過剰な表現を避けているようでもあった。演奏時間は約66分。
 スワロフスキーは都響の弦から美しいハーモニーを引き出した。チェロとコントラバスの響きもキレと厚みがあった。木管楽器の位置を低くしていたためか、木管全体がほどよくブレンドされて聞こえてきた。16型の巨大な編成だが、バランスの良い音がする。

スワロフスキーの指揮姿は、土台がしっかりしており、両手を大きく広げたタクトからは、横に広がる息の長いフレーズを生み出していく。そこには常に歌があふれていた。

 

ソリストはステージ前に出て歌った。ソプラノ:安井陽子、アルト:富岡明子、テノール:福井敬、バリトン:甲斐栄次郎という二期会のメンバー。合唱も二期会合唱団。合唱指揮は増田宏昭。ソリストはさすがベテランのうまさ、安定した歌唱で、4人のハーモニーもバランスが良かった。

合唱は80名ほど。新国立劇場合唱団と肩を並べる声量と正確なハーモニー、発音の良さがあった。新国立劇場合唱団が個々の団員の個性が感じられるのに対し、二期会合唱団は一糸乱れず、パートごとの結束が固いという印象があった。

 

写真:©東京都交響楽団 (23日東京芸術劇場での撮影)



 


藤田真央×VYO×チャイコフスキー 指揮:大森大輝(12月27日・杉並公会堂)

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 今年のチャイコフスキー国際コンクール第2位の藤田真央が、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番と第1番を一度に弾くというので、チケットは早くに完売。会場は若い女性を中心とした藤田ファンで埋め尽くされた。

 

プログラムはオール・チャイコフスキー。2部構成で、16時から交響曲第5番とピアノ協奏曲第2番。1時間の休憩の後19時からピアノ協奏曲第1番と交響曲第6番《悲愴》という、ハードな内容。

 

オーケストラは2015年に音楽高校生中心に結成され、現在は首都圏の音大生中心の構成によるヴィルトゥオーゾユースオーケストラ(VYO)。指揮は、ウィーン国立音楽大学に在学中で、今年ロヴロ・フォン・マタチッチ国際指揮コンクールでセミファイナリストまで進んだ大森大輝(おおもりだいき)。コンサートマスターは、関朋岳(せきともたか)と戸澤采紀(とざわさき)。

 

ピアノの藤田真央と指揮の大森大輝は同じ1998年生まれの21歳。気が合うのか、二人の共演は同じ方向を向いており、音楽性も重なるところがあった。

 

具体的にそれを感じたのは、最初に大森が指揮するチャイコフスキーの「交響曲第5番」の終楽章、再現部の最後のダイナミックな盛り上げと、全休止の後の堂々たる終結部の壮大な指揮を聴いた時。これは、藤田がチャイコフスキーの協奏曲で聴かせる、コーダでの追い込みによく似ていると思った。

大森のチャイコフスキーは、テンポをゆったりととった、スケールの大きなもの。第2主題を雄大にたっぷりと息の長い旋律で歌わせるところがとても良いと思った。

 

オーケストラもフレッシュで生気ある響き。特に弦が素晴らしかった。トップから最後のプルトまで、全員のレベルが高く、合奏の密度も濃い。

 

コンサートマスターは戸澤菜紀。東京シティ・フィルのコンサートマスター戸澤哲夫さんのお嬢さんだ。第85回日本音楽コンクール最年少優勝。彼女のソロは、藤田がソリストのチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第2番」第2楽章でたっぷりと聞けたが、音程が正確で、旋律線がしっかり筋が通って安定している。いつか彼女の協奏曲のソロか、リサイタルを聴いてみたい。現在東京藝大在学中。

 

藤田の演奏は、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストの面目躍如。音色がまろやかで美しく、どれほどの難所でも余裕があり、とくにfffでのダイナミックなピアノはチャイコフスキー国際コンクールの第2位でさらに厚みと迫力を増していた。第1楽章展開部最後の長大なカデンツァは圧巻だった。大森&VYOのバックも藤田にぴったり合わせていた。

藤田のアンコールはグリーグ「抒情小曲集第3集OP.43」としかアンコールボードになかったが、第5曲「愛の歌」だっただろうか?

 

後半は藤田真央の「ピアノ協奏曲第1番」から。第2番同様のヴィルトゥオーゾ的で輝かしい演奏だが、第1楽章第2主題の歌わせ方が優しさの極みで印象に残った。

アンコールはまたもグリーグ「抒情小曲集第3集OP.43」から、第6曲「春に寄す」。

 

 

最後は「交響曲第6番《悲愴》」。コンサートマスターは関朋岳。第16回東京音楽コンクール弦楽器部門第1位。大森の指揮は、第2楽章の5拍子のワルツがどこかぎこちない。ワルツの感覚がうまくつかめないのは日本の指揮者でしばしば感じる点だ。これはワルツをふだんの生活の中で踊ることがないためではないだろうか。
 第3楽章後半の行進曲から音楽は熱気を帯び、終わると場内から思わず拍手が起きた。第4楽章は、慟哭のような激情はそれほどないものの、丁寧な音楽づくりで、コーダのチェロとコントラバスのリズムもしっかり刻んでいた。

 

大森は拍手を止めて「最後までお聞きいただいた皆様に特別のアンコールがあります。ピアノを運び込むまで少しお待ちください」と告げた。なんと、藤田真央が再び登場。準備が整っていきなり、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」の第3楽章がアンコールで始まった。

驚いたことに、リラックスしたためか、藤田真央はチャイコフスキーよりも、さらに自由さが増し、天衣無縫の完璧な演奏。大森指揮VYOの演奏も、同じく伸び伸びとして余裕すら感じさせ、まさにヴィルトゥオーゾ・オーケストラそのものの見事な演奏だった。

 

藤田真央と大森大輝、ヴィルトゥオーゾユースオーケストラの演奏を集中的に聴いて、今の日本の若手演奏家のレベルの高さと音楽性の豊かさを改めて思い知らされた。



 

トッパンホール ニューイヤーコンサート2020 (1月8日・トッパンホール)

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 今年最初のコンサート。
 トッパンホールのニューイヤーコンサートは、これまでピーター・ウィスペルウェイ(チェロ)の無伴奏チェロ・リサイタルや、若手演奏家の意欲的なプログラムといったクラシック通を唸らせる凝った内容が多かったが、今回はヴィヴァルディ《四季》など華やかな作品が並んだ。しかし、めったに聴けないヨハン・ゴットリープ・グラウンの「ヴァイオリン協奏曲イ長調」がある点は、やはり一味違う。


 グラウンを選んだのはソリストのドイツ・カンマーフィル、コンサートマスター、ダニエル・ゼペック。ゼペックに言わせると「グラウンはヴィヴァルディのようで、もっと行っちゃってる」とのこと。聴いていてどこが「行ってしまっている」のか、わからなかったが、第3楽章の即興的なカデンツァは当時としては革新的な激しさに聞こえたのかもしれない。cpoレーベルにグラウンの作品ばかりを録音しているゼペックなので、演奏は堂に入っていた。

 共演はトッパンホールチェンバー・オーケストラ(在京オケの主要メンバーなどで構成)。4-4-2-2-1の小編成だが、トッパンホールのサイズには充分すぎる音量。

 

 続いて、ドイツを代表するチェリストで、シュターツカペレ・ドレスデンの首席としても活躍したペーター・ブルンズが、ハイドンの「チェロ協奏曲第1番ハ長調」を弾いた。2018年に共演したトッパンホールチェンバー・オーケストラから大好評で、今回の再演が決まった。
 ブルンズは初めて聴いたが、生命力があり、力強いチェロを弾く。音はシュターツカペレ・ドレスデンの音色に通じる柔らかく温かなもの。音楽性があるという言い方はあいまいだが、音楽を今生み出し創造しているような、エネルギーが充満した演奏の迫力が凄い。使用楽器は、カザルスが所有していた1730年ヴェニス製のカルロ・トノーニ。この1曲のためにだけ、ホルンの日橋辰朗やオーボエの蠣崎耕三(ともに読響首席)が加わるのは贅沢だ。
  ここでは、ゼペックがトッパンホールチェンバー・オーケストラのコンサートマスターを務めたが、オーケストラの音が格段に良くなることに驚いた。ゼペックはブルンズとアイコンタクトしながら、一体感をどんどん深めていった。

 

後半は、ヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲集《四季》」。ソロを務めるのは、山根一仁。2010年中学3年生で第79回日本音楽コンクール第1位、岩谷賞など5つの副賞も受賞。いまや日本の若手ヴァイオリニストを代表する一人だ。
 ゼペック率いるトッパンホールチェンバー・オーケストラにはブルンズも加わる。山根、ゼペック、ブルンズの間にどのような化学反応が生まれるか、スリリングな《四季》になるのでは、と予想していたが、結果的にはゼペックのコンサートマスターとしてのけん引力と、ブルンズの存在感の大きさを痛感するものとなった。

 ゼペックが入るとオーケストラの音色がまるで違うものになる。ゼペックの音だけがガンガン聞こえてくる。それに引っ張られてオーケストラの奏者たちも積極的になり、本来の力を引き出してもらっていたようだ。そしてブルンズ!山根とのソロの応酬ではブルンズが圧倒する。音も大きいし、音楽が豊かで、終始大きな存在感を示した。

 

山根はアゴーギク(テンポやリズムの意識的な変化)を使うなど、革新的な演奏を目指す姿勢が出ていた。鮮やかなテクニックや流れるように滑らかなフレーズなど聴きどころも多い一方で、演奏の線が細いため、ソロとしての存在感が少し薄い。もっと力強く前に出ても良かったのではないだろうか。
 アンコールは、弦楽器全員と通奏低音のチェンバロでバッハのアリアが披露された。


 

下野竜也 読響 グバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」(日本初演)のインパクト

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(1月15日・サントリーホール)

  グバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」を聴いて、最近読んだばかりの、現代音楽作曲家、望月京(もちづき みさと)が、自著「作曲家が語る音楽と日常」(海竜社刊)で述べた言葉を思い出した。

 

 『前衛とは要するに、「なんだこりゃ!?」という未知のエネルギーを秘めた思想だ。』

 

 今日聴いたグバイドゥーリナ(1931-)「ペスト流行時の酒宴」は、まさにそういう作品だった。日本初演に立ち会う興奮を久しぶりに味わった。

この刺激的で、これまで聴いたことのない音楽の持つ引力の凄さ、迫力、面白さ。なによりも聴く者に「恐怖」を呼び覚ます衝撃の強さとエネルギーは、いったい何なのだろう?

 16回も続く切り裂くような不穏なモティーフが次々と押し寄せる恐怖感は、戦慄すべき衝撃があり、例えはあまり適切ではないが、9年前の東日本大震災とそれに続く福島の原発事故の際の心理状態を呼び覚ました。

 

 そういえば、ネット上で著名な地震学者が、最近の地殻変動が東日本大震災の2か月前によく似ていると不安な予想を述べていたのも気になる。グバイドゥーリナの作品のもたらす恐怖感は、現実の大災害の体験を呼び覚ますインパクトがあった。

 読響は、最初の出だしの金管のコラールでつまずくという傷もあったが、演奏が熱く盛り上がるにつれ、楽員の集中はどんどん高まり、あの記念碑的な2017年のメシアン「アッシジの聖フランチェスコ」の名演を彷彿とさせるものがあった。

 

 この作品を取り上げたのが下野だとすれば、彼の着眼力と、冒険的な企画を受け入れた読響に敬意を表したい。

 

 今日のプログラムには、他にも日本初演があった。
モートン・フェルドマン(1926-87)の「On Time and the Instrumental Factor」。8分ほどの短い作品。1969年の作品であり、短い素材を繰り返す手法や、響きは今や古典かもしれない。

 

 前半は、ショスタコーヴィチ(1906-75)「エレジー」から始まった。歌劇《ムツェンスク群のマクベス夫人》第1幕第3場でカテリーナが歌うアリアに基づき書かれた弦楽四重奏曲の弦楽合奏版(シコルスキ編曲)。ショスタコーヴィチの書く緩徐楽章のイメージがあり、第2ヴァイオリン首席とヴィオラ首席の二重奏部分は、オリジナルの弦楽四重奏曲どおりだと思うが、そこが最も美しかった。

 

 前半のもうひとつの大曲は、30分もあるジョン・アダムズ(1947-)の「サクソフォン協奏曲」。アメリカ東海岸のニューイングランドに生まれたアダムズは、祖父がビッグバンドの出演するダンスホールを経営、両親もアマチュアのジャズ・ミュージシャンという環境から、ジャズからの影響は計り知れない。この作品もいわば、ジャズサクソフォン協奏曲と言ってもいいくらい、ジャズのフレーズが満ち満ちている。

 

アルトサクソフォンを吹くのは上野耕平。上野の滑らかなフレーズ、正確な音程、どれほど速いパッセージも完璧に吹くテクニックはすごい。
 ただ、作品自体の印象を言えば、ジャズのアドリブをすべて譜面に起こし、そこに変拍子のアレンジを施した、というもので、音楽的にはジャズのようでジャズとは違う、現代音楽のようで前衛らしくない、という中途半端な感想を持った。

 

 エリック・ドルフィー(学生時代にLP盤が擦り切れるくらい聴いた私が大好きなミュージシャン)を思わせる、わめきたてるようなフレーズがサクソフォンに出る第1楽章のクライマックスは面白いと思ったが、正直作品全体のインパクトは大きくない。

 

 せっかくジャズ風に書くのなら、思い切ったアドリブ=カデンツァを入れるとか、ビッグバンドのソロの応酬のように、サクソフォンがオーケストラの金管や木管とバトルを繰り広げたら、もっと面白いのでは、と思ってしまった。多少それらしい部分はあったが、目立つほどではなかった。

 

今日のサントリーホールは業界の関心の高さを示すように、多数の音楽評論家、音楽ジャーナリストが詰めかけていた。

グバイドゥーリナが終わったあと、現代音楽のコンサートとは思えないほど客席を埋めた聴衆から巻き起こった拍手は熱狂的で、「ペスト流行時の酒宴」が与えたインパクトがいかに大きかったかが如実に表れていた。


 

「音楽の友」恒例、「コンサート・ベストテン2019」発表!

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「音楽の友」2月号が本日(118日)発売され、41人の音楽評論家・記者が選ぶ「コンサート・ベストテン2019」が発表されました。
果たしてどのコンサートが第1位となったのでしょうか?


今回私が書いた記事は、以下のとおりです。
①ミューザ川崎シンフォニーホール15周年記念「スペシャル・オーケストラ・ウィーク」
ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウという世界三大オーケストラ華麗なる競演のレポート。(16,17p)
②「コンサート・ベストテン」(67p)
③特別企画「忘れがたいこの1曲!2019」(93p)

④コンサート・レヴュー

●キンボー・イシイ&新日本フィル(144p)●井上道義&読響(146p)●クァルテット・エクセルシオ+吉井瑞穂&景山梨乃(148p)

Scramble Shot「自由が丘クラシック音楽祭「強制収容所に消えた天才作曲家」初日レポート(巻末News & Information

お読みいただけたらうれしいです。

 

 

 

 

 

 

 

エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 庄司紗矢香(ヴァイオリン)

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123日・東京芸術劇場コンサートホール)
 なんという演奏会だろう。そこまでやるか?!そこまで行きますか?!という驚き、衝撃を受けた。

 

サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団のラヴェル《クープランの墓》とストラヴィンスキー《春の祭典》、その前に庄司紗矢香のヴァイオリンで、シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」。サロネンも庄司紗矢香も、これまで聴いてきた名演奏をはるかに超えるような高い段階を軽々と成し遂げてしまう。唖然とする、とはこのことか。

 

前半の庄司は、凄かった。彼女は、聴くたびに一回りも二回りも大きくなる気がする。今回は、サロネンのチェロ協奏曲の日本初演をするはずだったトゥルルス・モルクが肺炎のため来日できなくなり、急な代役となったもの。庄司にとって自分のレパートリーとはいえ、そんな気配を微塵とも感じさせない、ヴィブラートをしっかりと使った豊かな響きで奥深い解釈を聴かせた。どっしりと構えた堂々たる演奏は、まさにヴィルトゥオーゾ以外の何者でもない。サロネンとフィルハーモニア管弦楽団にとっては、頼もしい助っ人に映ったに違いない。

 

この曲がこれほどやすやすと、何の障害も感じさせず弾かれるのを聴いたのは初めてだ。庄司の表現の幅は、桁外れに大きい。また、それを裏打ちする技術は、浮沈空母のように安定している。サロネンとフィルハーモニア管弦楽団がいかに激しく挑みかかっても、びくともしない。まさに鉄壁同士が手を結び、ゆるぎない建造物を築いていくような、スケールの大きな強靭な演奏だった。

 

シベリウスのヴァイオリン協奏曲が、あの小柄でにこやかな庄司紗矢香の手によって、巨匠の風格で演奏されるのを目の当たりにして、驚愕するばかり。恐るべき演奏家に成長したものだ。

 

アンコールは、パガニーニ「《うつろな心》による序奏と変奏曲」から「主題」。ロッシーニの歌劇「タンクレディ」の第1幕のアリアの旋律による長い序奏と2つの変奏からなる10分近い難曲。庄司は主題だけを弾いたが、それ自体左手のピッツィカートをふんだんに使う難しいもの。庄司の鮮やかな演奏は、ロシアの演奏会のアンコールでも弾かれたyoutubeの映像でも見ることができる。

https://www.youtube.com/watch?v=hmpyjsmkrVo

 

  メインのストラヴィンスキー《春の祭典》は、冒頭に書いた通りの感想。

 「なんだこれは!?」の衝撃は、先週の下野竜也&読響によるグバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」でも体験したが、サロネン&フィルハーモニア管の《春の祭典》も、聴きつくしたと思った作品が、まったく衣裳が異なる形で現れ、初演で聴いた聴衆のショックを自身が受けるようだった。
 

 印象を一言でいえば、『超新星爆発のエネルギーがこちらに向かって突進してくる』というもの。サロネンのタクトが一閃するたびに、想像を絶するエネルギーを持った輝かしく、引き締まった音が衝撃を伴ってこちらに向かってくる。第1部最後の「大地の踊り」と、第2部最後の「生贄の踊り」はその最たるもので、押し寄せる音に踏みつぶされるのではないか、というスリルと恐怖を味わった。

 

 一方で、緩徐な部分は嘘のように穏やかな、しかもゆったりとした時間が流れるのも、不思議な気がした。フィルハーモニア管の演奏能力もまた庄司紗矢香に負けじと、幅が広く、奥が深い。

 

 28日のストラヴィンスキー「《火の鳥》(1910年原典版)」と、29日のマーラー「交響曲第9番」は、果たしてどのような演奏になるのだろう。28日は庄司紗矢香がショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番」を弾く。早くから予定されていた曲目であるため、当然練り上げられているはずだ。期待しよう。

 1曲目のラヴェル「クープランの墓」は、スキのない緻密な演奏だった。特に第1曲「前奏曲」と第3曲「メヌエット」はニュアンスが細やかだった。

 サロネンへのソロ・カーテンコールは2度あった。 なお、今日はNHKにより8K(!)の収録が行われていた。


 

アンドレア・バッティストーニ 東京フィル 阪田知樹(ピアノ)(1月24日・サントリーホール)

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ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」を弾いた阪田知樹(さかたともき)にはがっかりした。こんな平板なピアノを弾くとは。3年前、同じく東京フィルに登場した時は、『今日は阪田知樹という素晴らしいピアニストを聴けたことが、最大の収穫だった。最近聴いた日本の若手ピアニストの中では、最も感銘を受けた。リストのピアノ協奏曲第1番はヴィルトゥオーゾを感じさせる演奏だった。完璧なテクニックとともに、風格があってスケールが大きい。』と絶賛したのに、何があったのだろう。

アンコールのラフマニノフ《ヴォカリーズ》も音が薄く、ただ鳴っているだけだった。このレベルのピアニストではないはずだ。奮起を期待したい。

バッティストーニ&東京フィルもさえない。クライマックスだけは、強烈に鳴らすが、それまでの音楽と繋がらないため、唐突に感じた。

 

後半のベルリオーズ《幻想交響曲》は、バッティストーニの新鮮な解釈を聴くことができた。第1楽章「夢・情熱」は、これはという特徴はなかったが、第2楽章「舞踏会」のワルツのリズムと、旋律の歌わせ方は洗練されていた。バッティストーニがオペラで舞踏音楽に慣れていることと、ダンスの機会が多いヨーロッパ人であるためだろう。

第3楽章「野の情景」の後半はテンポが遅い。こんなにゆっくりと進む演奏はあまり聴いた記憶がない。繊細な弱音も新鮮。このテンポと表情を決めたバッティストーニの意図を知りたいと思う。

第4楽章「断頭台への行進」は、このくらいはやるだろうという予想の範囲内だったが、金管の輝きはバッティストーニならでは。第5楽章「サバトの夜の夢」はテンポの緩急の変化が大きく、スケールの大きな演奏だった。

 

バッティストーニのコンサートを数多く聴くうちに、かれの手の内が事前に予想できるようになってきた。一気に人気が出ただけに、飽きられるのも早いのでは、という危惧も抱く。初めて聴いた時のような衝撃を常に与え続けてほしい、というのは弱冠33歳のバッティストーニに対して求めすぎかもしれないが、今後も色々なことにチャレンジしてさらに指揮の腕を高めてほしい。
  

しかし、オペラでの積極的な活動は素晴らしい。2018年のボーイト《メフィストーフェレ》、2015年ヴェルディ《トゥーランドット》など、いずれも大成功だった。今年も9月の東京フィル定期演奏会で、リッカルド・ザンドナーイの歌劇《フランチェスカ・ダ・リミニ》の演奏会形式に挑むので楽しみにしたい。

 




 

飯森範親 東京交響楽団 ラッヘンマン、アイネム、リーム、R.シュトラウス 

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125日・サントリーホール)
 入りは6割くらいだろうか。半分が現代曲なので、一般の音楽ファンには敷居が高いのかもしれない。それでも、あえてプログラムに乗せる東京交響楽団と飯森範親の意欲的な姿勢と意地に敬意を表したい。

 飯森&東響は、昨年ツィンマーマンの歌劇「白いバラ」で衝撃を与えたが、今年のラッヘンマン、アイネム、リームは、そこまでの衝撃はなかった。

 

開演間、飯森とソプラノの角田祐子がプレトーク。

『ラッヘンマン「マルシュ・ファタール」は命がけのマーチの意味。ディズニー・マーチのよう。シュトゥットガルト州立歌劇場のニューイヤー・コンサートでカンブルランにより201811日に初演された。リスト「愛の夢」や、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲の引用がある。バベルの塔が崩れ落ちるようだ。本当は今日が日本初演の予定だったが、カンブルランが西のほうのオーケストラ(京都市交響楽団)でアンコールに演奏してしまった。ピアノ版は水戸芸術館で日本人の奥さんが行った。』

 

最後のほうにレコードの針が跳んで同じ個所を繰り返すような部分があるが(最低7回は繰り返す指示がある)、そこで飯森範親は指揮台から降り、客席に移動、座席に座った。飯森は戻ってきて最後に、吹き出しを吹いて終わらせた。その形はナチスの旗にある黒鷲の形に見えた。
 

  youtubeに初演のさいの音源があがっている。

https://www.youtube.com/watch?v=u-gI9u-bjHo

  

2曲目アイネム「《ダントンの死》管弦楽組曲」(日本初演)は、1947年20代のダントンが書き、ザルツブルク音楽祭で初演した歌劇。原作はドイツの革命詩人ビュヒナーが1835年に書いた戯曲。フランス革命の立役者ダントンがロベスピエールによりギロチンにかけられる物語。管弦楽版は4つの曲からなる。

youtubeの音源

https://www.youtube.com/watch?v=ClRy8i4jOQI

  

飯森は、この作品のあと、休みなしにリームのソプラノとオーケストラのための情景「道、リュシール」を演奏すると語った。この作品もビュヒナーの戯曲《ダントンの死》に基づいている。リュシールはダントンの同僚デムーランの妻の名前。3人とも死刑になるが、夫が処刑され、狂気に陥ったリュシールが最後に「国王万歳!」と叫ぶところで終わる。

 

アイネムとリームは、緊張感に満ちていたが、既視感も感じた。「何だこれは?!」という驚きにまでは至らなかった。

特にリームは昨年ツァグロゼク&読響で「Ins Offence」(第2稿)や4年前モイツァ・エルトマンが歌う「オフィーリアは歌う」を聴いていたからかもしれない。

 

後半のR.シュトラウス《家庭交響曲》は、ノットに鍛えられた東京交響楽団の好調ぶりを示す熱演。瑕もあったが、ホルン、トランペット、トロンボーンは健闘、木管も子供の主題を吹くオーボエ・ダモーレの最上峰行の素晴らしいソロをはじめ、オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットなど、積極的な演奏だった。弦の音はみずみずしい。

 

飯森の指揮は明快で、流れのよいものだが、表情のパターンが同じように感じられるところもあった。

コーダは少しもったいなかった。せっかく壮大な最後を築こうとしたのに、最後の最後で力が抜けてしまった。力を蓄え、ここぞとばかりに、エネルギーの総てを注いで欲しかった。

 

 

 


チョン・ミョンフン 東京フィル 令和元年特別「第九」演奏会

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1219日・東京オペラシティ)

第九の後にエルガー「戴冠式頌歌」第6曲《希望と栄光の国》」が出演者全員により、演奏された。「威風堂々」中間部と同じ旋律で、1902年、英国王エドワード7世の戴冠式前夜のガラ公演のために作曲された。歌詞は詩人のアーサー・クリストファー・ベンソンによる。新天皇の即位と令和のスタートを祝うため演奏されたのだろう。徳仁(なるひと)天皇は、イギリスに留学されたこともあり、この曲が選ばれたのかもしれない。

 

ミョンフンの第九は、昨夜のボルトンとは異なり、オーソドックスな演奏。ヴィブラートもかけ、ティンパニもモダン楽器を使用していた。演奏時間は、66分なのでボルトンと変わらないが、古楽的なアプローチではないため印象がずいぶん違う。主情的、劇的で、ロマンティックな演奏に聞こえる。

 

特に第1楽章と第4楽章はミョンフンの気合も入り、ドラマティックな演奏になっていた。第4楽章最後の合唱により最も高揚する“Freude, schöner Götterfunken”(喜びよ、神々の美しい閃光よ)を雄大に、たっぷりと歌わせ、続いて一気呵成にオーケストラの総奏で締めくくった。

一方で、第2楽章スケルツォと、第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレは、意外に淡白な表情だった。

 

ソリスト(ソプラノ:吉田珠代、アルト:中島郁子、テノール:清水徹太郎、バリトン:上江隼人)は、重唱がやや平板な印象を受けた。4人は、第4楽章のオーケストラによる「歓喜の主題」演奏中に入場したが、こういう入場の仕方もあっても良いと思う。一昨日の読響では、第2楽章スケルツォの後にソリストが入場。激しいスケルツォが終わった後で、これもまたタイミングとしては良かった。

 

合唱は新国立劇場合唱団。読響の第九とはメンバーが異なるのではないだろうか。指揮は水戸博之。女声も男声と変わらずパワフルで、各声部がくっきりと聞こえてくる。チョン・ミョンフンの激しい指揮に反応したのか、読響の第九よりも、荒々しさがあった。合唱には、多摩ファミリーシンガーズ(児童合唱指揮:高山佳子)も加わっていた。

 

今年の第九は、この後、24日にレオシュ・スワロフスキー&東京都交響楽団と、28日にジョナサン・ノット&東京交響楽団に行く予定。ノットの第九がどういう演奏になるのか興味津々だが、「音楽の友」にコンサート・レヴューを書くため、ブログは短い感想に留めるつもり。



 

ラファエル・パヤーレ N響 アリサ・ワイラースタイン(チェロ)ショスタコーヴィチ・プログラム

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131日・NHKホール)
 ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」から出たアーティストのひとり、パヤーレがN響の定期演奏会に初登場。オール・ショスタコーヴィチ・プログラムを振った。コンサートマスターはライナー・キュッヒル。

 

「バレエ組曲」は軽快で、シニカルな味わい。パヤーレの細身のスマートな体つきや、キビキビとした指揮ぶりは川瀬賢太郎に似ていると思った。

 

ワイラースタインがパヤーレの奥さんとは知らなかった。夫婦共演の「チェロ協奏曲第2番」は、丁寧な演奏。作品は余り大きな山はなく、暗くたんたんと進むのでソリストの華麗な演奏楽しむというより、ひたすら深く沈潜していく音楽をじっくりと味わう。パヤーレのサポートも細やかで、コーダのシロフォンが鳴らすポクポクという音をバックにワイラースタインが消え入るように弾くチェロの弱音が良かった。

 

「交響曲第5番」はフレッシュで切れのよい演奏。第1楽章冒頭の序奏主題は、フレーズを短く切って緊張感があり、何度も聴いて耳タコの作品が新鮮に聞こえた。
第3楽章ラルゴのクライマックスでも、音が混濁せず、クリアで抜けが良い。ショスタコーヴィチの重さや暗さではなく、形式的に完成された交響曲を、ストレートにすっきりと提示する演奏だった。若いメンバーが多いN響との相性の良さもあるように思った。

コーダはかなり追い込んだが、最後は遅すぎない中庸のテンポで、しっかりと決めた。

 

若々しく見えるが、1980年生まれなので、今年40歳。インキネン、フルシャ、ドゥダメルとほぼ同年代。ラルゴなどもう少し深い音楽になってもいいのでは、と正直思うところもあったが、N響と対等に向き合う堂々とした指揮ぶりはなかなかのもの。今後が楽しみだ。

 

写真:ラファエル・パヤーレ© Henry Fair

 

山田和樹 読響 ネマニャ・ラドゥロヴィチ(ヴァイオリン)

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21日・東京芸術劇場コンサートホール)
 ハチャトゥリアンの「ヴァイオリン協奏曲」は、ラドゥロヴィチが素晴らしいテクニックで鮮やかに弾いた。作品には民族色があるので、そうした雰囲気をもう少し出しても良かったとも思う。山田和樹&読響は、第3楽章は激しく盛り上げ、ラドゥロヴィチとともに高揚していった。

ラドゥロヴィチのアンコールは、バッハ「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」から《サラバンド》。細やかなニュアンスに満ちた、繊細で優しい演奏は、彼の人柄を表しているようだった。

 

山田和樹は、前半1曲目にマーラー「花の章」を演奏し、後半に「巨人」を置いた。日本フィルとマーラーの交響曲全曲ツィクルスを成功させた山田にとっては、手の内に入った作品だと思うが、聴いた印象としては、若々しく勢いがあって、納得できる部分と、踏み込みが浅く、スケールが小さくまとまってしまっているところがあり、まだら模様に思えた。

 

第1楽章の序奏は、弦の長いA音にもう少しひそやかな響きや繊細さがほしいし、クラリネットは遠くから響いてくるように吹いてほしかった。展開部の頂点は、さらに雄大なスケールもほしい。

 

第2楽章「力強く運動して」は、低音弦の力強い三拍子のリズムに、切れ味とエネルギーがあり、ここはとても良かった。トリオのワルツは、少し息が短い。

 

第3楽章のコントラバスのソロは、くっきりとしたリズムとフレーズが気持ち良い。中間部「さすらう若人の歌」の旋律が出る部分では、山田がヴァイオリンに繊細なニュアンスを要求し、ここは素晴らしかった。

 

第4楽章の熱気に満ちた演奏は、山田和樹の本領が発揮された。欲をいえば、練習番号16からのスローダンス的(ダニエル・ハーディングの表現)な部分を、さらに息長くロマンティックに歌ってほしいと思ったが、コーダの熱狂は熱かった。
 読響はコントラバスの石川滋と、オーボエの金子亜未のソロが印象に残った。

 

写真:山田和樹©Marco Borggreve   



 

フランソワ=グザヴィエ・ロト 東京都交響楽団(2月2日・サントリーホール)

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 ロトの指揮は、2018612日東京オペラシティでの、手兵のレ・シエクルとのラヴェル《ラ・ヴァルス》が、
驚天動地の演奏だったので、今日は期待していた。

(その時のレヴュー↓)

https://ameblo.jp/baybay22/entry-12383321015.html

 

その期待は、裏切られることはなく、後半のラヴェル《ダフニスとクロエ》全曲の素晴らしい演奏で、完全に満たされた。

 

前半は、ラモー「オペラ=バレ《優雅なインドの国々》組曲」から始まった。オペラ=バレとは、17-18世紀のフランスの舞台演目のひとつ。プロローグと3または4のアントレ(場)で構成される。
 オーケストラは10型の対向配置。コントラバス4台は下手側。弦はノンヴィブラートですっきりとしているが、響きが豊か。

最もよく知られた第4曲「未開人たちの踊り」では、テナードラム(深胴の小太鼓)、タンブリン、フィンガーシンバル(指につけるシンバル)、スレイベル(そりの鈴)が活躍する。
 出だしは、子供のころ見た西部劇映画の音楽を思い出した。実際ラモーも、1725年にルイ15世を表敬訪問したネイティブ・アメリカンたちが披露した民族舞踊に基づいて書いている。ロト&都響の演奏は、シンフォニックで残響音が多く、古楽器によるものとは、一味異なっていた。第5曲「シャコンヌ」では高音のトランペットの抜けの良い音が壮麗だった。

 

ルベル「バレエ《四大元素》」は、12型に編成が大きくなり、コントラバスは5台。この曲の最初「カオス」の不協和音は、20世紀の現代音楽のようで、とても1735年から36年に書かれたものとは思えない。第2曲以降は、バロック音楽らしくなる。プログラムには全10曲が紹介されていたが、第4曲「さえずり」と、第5曲「夜うぐいす」がカットされたのは残念。可愛らしい鳥の声が聴きたかった。

しかし、第7曲「タンブーラン」では、オーボエ2本の立奏や第1、第2ヴァイオリンの立奏、さらにはファゴット4本の立奏があり、楽しかった。

10曲カプリスは、壮麗で、ここでの弦の音が、とても美しい。ルベルの筆致にもよるのだろうが、都響の弦からこうした響きを引き出すロトの指揮も冴えている。

 

さて、大きな期待を持って聴いたラヴェル《ダフニスとクロエ》全曲。リハーサルの時間が限られる中、都響をフランスのオーケストラのような響きに一変させたロトの手腕と、そのロトにきちんとついて行く都響の柔軟さと、能力を讃えたい。


 都響の弦が、これぞフランスの音と思える、虹色に輝く雲のようにふくらみと色彩のある音に変わるのは、マジックのようだった。木管も素晴らしく、主役であるフルート(首席柳原佑介)も「パンの神」にふさわしい、柔らかく温かい音で素晴らしい。オーボエ、コーラングレも色彩が感じられた。この上で、ホルンのソロが完璧であったなら、さらに良かったと思う。

 

栗友会合唱団がまた特筆すべき出来栄え。昨年もド・ビリー新日本フィルとのブラームスの合唱曲で美しいハーモニーを披露したが、今日はそれに輪をかけて、柔らかく透明なハーモニーが素晴らしいものがあった。

 

導入のオーケストラと合唱のハーモニーからすでに別世界。目の前に色彩感が広がる。<ドルコンのグロテスクな踊り>のファゴットの合奏もやわらかく、これぞフランスのバソンという趣のある音。

 

<ダフニスの軽快で優雅な踊り>の波うつ弦も色彩的で、ニュアンスが豊か。<海賊の来襲>の遠近感のある、細やかな表情も素晴らしい。

 

2部冒頭<無伴奏合唱による間奏曲>の栗友会合唱団の幻想的なハーモニーは夢心地。
<戦いの踊り>のめくるめくような色彩感は、レ・シエクルと同じとまではいかないまでも、パレットにこれだけ色が豊富な音楽を聴けるのは至福。

 海賊たちが消えうせるまでの物語の場面転換は鮮やか。ウィンドマシーンの音も音楽と一体となる。

 

<パントマイム>でのフルートの詩情を感じる響きは胸を打った。

 

最後の大団円<全員の踊り>は、もう少し熱狂的であっても良いのではとも思うが、完全にオーケストラと合唱をコントロールし、ラヴェルの極彩色の音のきらめきを、完璧なまでに聴かせてもらえれば言うことはない。

 

終わると盛大なブラヴォ。ロトへのソロ・カーテンコールには、半分以上の聴衆が残って拍手を送っていた。

 

 

 

フィリップ・トゥッツアー バッハ:無伴奏ファゴット・リサイタル 

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212日・JTアートホール アフィニス)

 2007年からザルツブルク・モーツアルテウム管弦楽団の首席奏者を務め、2008年、難関のARDミュンヘン国際コンクールで第2位に入賞したフィリップ・トゥッツアーのリサイタル。

 

 プログラムは以下の内容。
J.S.バッハ:組曲 第1番 ト長調 BWV1007

(原曲:無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007

J.S.バッハ(編曲:ウィリアム・ウォーターハウス):パルティータ ニ短調 BWV1013

(原曲:無伴奏フルート・パルティータ イ短調 BWV1013

J.S.バッハ:組曲 第4番 変ホ長調 BWV1010

(原曲:無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV1010

C.P.E.バッハ(編曲:モルデチャイ・レヒトマン):無伴奏ファゴット・ソナタ ニ短調 Wq.132, H.562

(原曲:無伴奏フルート・ソナタ イ短調 Wq.132, H.562

 

前半は硬さがあった。後半は音に色彩感も出て、ずっと流れが良い。

ただ、うまいのだが、もうひとつ何かが足りない。

 

アンコール*は積極的に攻めたので、一気に自由度が増し、音楽が生き生きと息づいた。そうそう、こういう演奏が聴きたかった、やろうとすればできるアーティストなんだ、と合点した。

ミスしないように演奏するよりも、多少のミスはいとわず、攻めたほうが演奏としては面白い。実際には、ミスらしいものはなかったのだから、素晴らしい技術の持ち主であることは間違いない。

 

ファゴットのソロ・リサイタルは初めて聴いたが、原曲である、チェロやヴァイオリンと同じようなアーティキュレーションで吹くのは無理があるため、どこかで息継ぎをしなければならない。音楽の流れを維持したまま、そのポイントを見つけるのは編曲者の腕前はもちろん、演奏者にも、原曲の流れを変えないようにすることが要求される。


 トゥッツアーはJ.S.バッハ:組曲 第1番 ト長調 BWV1007のプレリュードでは、少し苦しそうだったが、他は流れが良く、特にテンポの速い曲や、低い音から高い音に一気に駆け上がったり、逆に駆け下りたりするさいの、正確な指使いと、絶妙のタンギング(舌)の技術が素晴らしかった。

 

*アンコール曲

全てJ.S.バッハ

・無伴奏パルティータ ハ短調より ジーグ

(原曲:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ ニ短調 BWV1004

・組曲 第6番 ニ長調 より クーラント

(原曲:無伴奏チェロ組曲 第6番 ニ長調 BWV1012

 

 

 

 




 

山田和樹 読響 イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)(2月13日・サントリーホール)

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ホールに入ると、ニット帽をかぶったステージ衣装に着替える前のカジュアルな服装で、下手奥に置かれたピアノで、黙々とスケールや、様々な曲の一部を引き続ける、ポゴレリッチおなじみの姿があった。

シューマン「ピアノ協奏曲」は、ポゴレリッチが、緩急を頻繁に変える。例えば、第1楽章冒頭の主題は、普段他のピアニストで聴くよりも、倍くらい遅い。しかし、管弦楽が開始されるとテンポを上げる。第2楽章は、逆にテンポを早める。何故、こういうテンポにするのか、ポゴレリッチの考えを聞きたくなる。シューマンを聴いているのではなく、ポゴレリッチの独白を聞いているようだ。
 山田&読響は、よくポゴレリッチにつけていき、両者が食い違う場面はなかった。4年前に聴いた、カエターニ指揮読響との、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」は、悠然としたポゴレリッチのテンポが作品とマッチしていたが、シューマンは、少し違和感があった。第3楽章の最後の流れるようなピアノは、リリカルに可愛らしく弾いたが、最後はオーケストラとダイナミックに決めた。アンコールは、なし。ポゴレリッチが四方の客席に丁寧に腰を折ってお辞儀する姿が印象的だった。
 

 後半は、ドヴォルザーク「交響曲第7番」。山田と読響は、2年前の613日にサントリーホールで聴いたカリンニコフ「交響曲第1番」が、清新な作品にふさわしい抒情性に満ちた爽やかな名演だったが、今日の演奏は、音に濁りが感じられ、もうひとつ音楽の中に入っていけなかった。しかし、アンコールのアザラシヴィリ「無言歌集(弦楽合奏版)」は、繊細な弦楽器の音が美しかった。

 


 

ライナー・ホーネック 紀尾井ホール室内管弦楽団(2月14日・紀尾井ホール)

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今日の指揮者は、実質的にアントン・バラホフスキー(紀尾井ホール室内管、バイエルン放送響、コンサートマスター)だったと、言ってもいいのではないだろうか。

 

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲では、ホーネックは最初の出だしを指示しただけで、あとは、ほぼバラホフスキーにリードを任せ、自分のソロに専念していたように見えた。
 ホーネックのソロは、充分な準備を思わせる隙のない演奏。艶やかな音色と優雅な表情があった。バラホフスキーが入った時の
紀尾井ホール室内管は、弦の音のざらつきが消え、滑らかになる。

 

後半のベートーヴェン「交響曲第7番」は、名手揃いの紀尾井ホール室内管の実力を、ホーネックが最大限引き出したとは言えない、もどかしさを感じた。

 

ホーネックの表現は、中庸で癖がなく、無難だが、「これは」という、面白味に欠ける。もっと、深く入り込んだ指揮の方法が幾らでもあるのでは、もっと冒険してもいいのでは、と聴きながらずっと考えていた。

ホーネックの指揮に注目するのをあきらめ、バラホフスキーのリードぶりを見ることに切り替えたところ、その無理のない、自然で滑らかな弓さばきに、惚れ惚れと見入ってしまった。紀尾井ホール室内管のメンバーも、ホーネックではなく、バラホフスキーのリードに合わせているように見えてしまうのは、自分だけだろうか。

 紀尾井ホール室内管弦楽団は、強いリーダー・シップと、強固な音楽性を持つ指揮者が来ると、がぜん燃え、持てる力のすべてを発揮する。最近では昨年6月の鈴木雅明指揮によるモーツァルト「交響曲第29番」や、バルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」がそうだった。切れ味鋭い演奏は、次に何が起こるかわからない、スリルと興奮を覚えた。ホーネックと一緒に、ぜひそうした演奏を展開してほしいものだ。


 

 

 

 

 



 


パーヴォ・ヤルヴィ NHK交響楽団 シュテファン・ドール(ホルン)(2月15日・NHKホール)

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ヤルヴィN響のブルックナー「交響曲第7番」。技術的には何の問題のない、シンフォニックで、磨き抜かれた演奏。しかし、最初のチェロとホルンによる第1主題を聴いたとたん、違和感を持った。これがブルックナーの音なのだろうか?NHKホールのデッドな音を割り引かなければならないが、それでも、心に深く入ってくるはずのブルックナーとは違うと思った。

 ヤルヴィは第1主題をレガートで息長く歌わせた。悠久、雄大なブルックナーをつくろうとしたのかもしれない。

第2楽章の第2主題は、逆にややテンポを速めた。これも、違和感があった。天国で遊ぶような、優しさの限りを出してほしいと思った。


 20171112日サントリーホールで聴いたブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団の同曲は、夾雑物や誇張、テンポの動かしや、余計なアゴーギクとは無縁で、弦と木管の影のある深い音、金管の落ち着いた艶のある音もブルックナーにぴったりだった。

 

 ヤルヴィ指揮N響の磨き抜かれた音は、滑らかで艶やかだが、現代的、音響的で、心の襞に沁み込んでくるような音楽とは異質だった。そこには、私がブルックナーの演奏に求めるものが感じられなかった。


 具体的には、先に書いた、深い音、落ち着いた雰囲気、オルガンが教会に響き渡るような、残響の豊かな音。あるいは、何か触れがたい、神聖な雰囲気。心に深く感じるもの、響いてくるもの。こうしたものが、ヤルヴィとN響の演奏から、もっと感じられたら良かったと思う。

 

 前半は、ベルリン・フィルの首席ホルン奏者、シュテファン・ドールをソリストとして、デンマークの作曲家、ハンス・アブラハムセン(1952-)のホルン協奏曲(2019)が日本初演された。18分ほどの作品。ド-ルの超絶技巧をあしらうような、華美な部分のない、風の音が聞こえてくるような音楽だった。
 

パーヴォ・ヤルヴィ©Julia Baier
 


 

チョン・ミョンフン 東京フィル ビゼー「歌劇《カルメン》」(演奏会形式)

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221日・サントリーホール)

ビゼーの音楽の深さを今日ほど知らされたことはない。それを教えてくれたのは、チョン・ミョンフンと東京フィルの驚異的な演奏だ。それは、4年前に同じ組み合わせで聴いたプッチーニ「歌劇《蝶々夫人》」の破格の名演を凌駕していた。


 チョン・ミョンフンの指揮棒の先からすさまじいエネルギーが発せられると、東京フィルは、魔法にかかったように、全く別のオーケストラに変身した。「前奏曲」の色彩感にあふれた輝かしい音を耳にしたとたん、これがいつも聴くあの東京フィルなのか、信じがたい思いがした。

 

 第2幕、エスカミーリョ役のチェ・ビョンヒョク(バリトン)が歌う「闘牛士の歌」を聴いたとき、血沸き肉躍る曲なのに、なぜか涙が出てきた。チェ・ビョンヒョクの歌や合唱も素晴らしいが、東京フィルの音が、伴奏の域を超えて胸につき刺さるように響いてきた。ビゼーの音楽の底辺には、悲しみが潜んでいるのではないか、という考えが浮かぶ。チョン・ミョンフンと東京フィルの、切れば血が噴き出るような演奏は、ビゼーの音楽の核心を突いていた。
 オペラの中心は歌手だが、この夜のチョン・ミョンフンと東京フィルの演奏は、ドラマを進める原動力であり、音楽の主役だった。

 

歌手と合唱のレベルも高かった。

カルメン(メゾソプラノ)のマリーナ・コンパラートは、2017年のフェニーチェ劇場でチョン・ミョンフンと共演以来、カルメンは最も多く演じている。「ハバネラ」も「セギディーリャ」も全く過不足のない歌唱だった。周りを圧倒するような威圧感はないが、バランスがとれており、自由奔放なカルメンを見事に歌い、演技した。

 

 ドン=ホセ(テノール)のキム・アルフレードは、24年前、難関ミュンヘン国際コンクール第2位と特別賞を受賞。キャリアを重ねた今は、世界的な歌手となっている。張りのある声は、緊迫する場面では劇的な効果をあげ、愛の場面では感情表現が豊かだ。

第2幕「セビリャの城壁近くのリーリャス・パスティアの酒場」での、「花の歌」の切々とカルメンに訴える表情に惹き込まれる。第3幕第2場「ゼビリャの闘牛場の前」でのホセとカルメンが、死に向かって進む最後のやりとりは、アルフレードとコンパラートの歌唱も、チョン・ミョンフン&東京フィルの演奏も、迫真の熱を帯びた。

 

ミカエラのアンドレア・キャロル(ソプラノ)は、潤いのある清らかな声。声量も豊かで、容姿ともどもミカエラにふさわしい。欲を言えば、第3幕「山の中」での「何もこわくない」のアリアに、もう少し深い情感が欲しかった。しかし、密輸業者の仲間入りしたホセに「お母さんが危篤なの」と決然と告げる凛とした表情は素晴らしかった。

 

今回のステージでは、日本の歌手陣が、海外からの主役陣と較べて全く遜色がなかった。スニガの伊藤貴之(バス)、モラレスの青山貴(バリトン)、ダンカイロの上江隼人(バリトン)、レメンダードの清水徹太郎(テノール)の男声はもちろん、フラスキータの伊藤晴(ソプラノ)とメルセデスの山下牧子(メゾソプラノ)の二人も、カルメン役マリーナ・コンパラートの対等なやりとりで存在感があった。

 

新国立劇場合唱団は明確な発音と力感に満ちた合唱、杉並児童合唱団は元気いっぱいの明るい声でなごませた。全員が暗譜で歌う集中力と合唱の精度、オペラと一体となった表現力は驚くべきものがあり、チョン・ミョンフンの指示が合唱にも徹底されていることを感じさせた。

 

チョン・ミョンフンにとって、《カルメン》は最も得意とするオペラのひとつだが、3月から4月にかけ、イタリアのフェニーチェ歌劇場でも指揮することになっており、東京フィルとの共演にさいしては、これまでの集大成を創り上げようという意欲に燃えていたに違いない。東京フィルにとっても、《カルメン》は新国立劇場をはじめ、幾度となくピットで演奏したお家芸のレパートリーだ。
 その両者が燃えに燃えて演奏した《カルメン》は、理想的な声楽陣を得て、聴き手を心底から揺さぶる忘れがたい名演として結実した。

 

指揮:チョン・ミョンフン

カルメン(メゾソプラノ):マリーナ・コンパラート

ドン=ホセ(テノール):キム・アルフレード

ミカエラ(ソプラノ):アンドレア・キャロル

エスカミーリョ(バリトン):チェ・ビョンヒョク

スニガ(バス):伊藤貴之

モラレス(バリトン):青山貴

ダンカイロ(バリトン):上江隼人

レメンダード(テノール):清水徹太郎

フラスキータ(ソプラノ):伊藤晴

メルセデス(メゾソプラノ):山下牧子

合唱:新国立劇場合唱団

児童合唱:杉並児童合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

コンサートマスター:三浦章宏

オーケストラ・ニッポニカ第36回演奏会「日本バレエ・舞踏史における1950年」

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223日・紀尾井ホール)

 新型コロナウィルス感染拡大で次々とコンサートが中止される今となっては、貴重な機会だったオーケストラ・ニッポニカの演奏会。
指揮は、鈴木秀美。アマチュア・オーケストラから、まとまりのいい響きと、切れの良いリズムを引き出した。

 

 テーマは「日本バレエ・舞踏史における1950年~日本の舞踏界の礎を築いた小牧正英、江口隆哉、宮操子へのオマージュ」。

敗戦直後から、日本での舞台作品の上演は活況を呈した。19468月には、東京バレエ団が結成され、チャイコフスキー「白鳥の湖」全曲が初演された。当時、楽譜が入手できなかったため、上海から引き揚げてきた小牧正英(小牧バレエ団創立者)が持ち帰ったピアノ譜を、指揮者の山田和男がオーケストラに編曲した版が使われたという。

 

今回のプログラムは、1950年に創作された伊福部昭のバレエ音楽《プロメテの火》と、同じ年に小牧正英が踊り、朝比奈隆指揮で日本初演された「バレエ音楽《ペトルーシュカ》(1947年版)」、そして本来1950年に芥川也寸志によって作曲された《湖底の夢》《失楽園》を予定したが、楽譜が現存しないため、1968年作曲「舞踏音楽《蜘蛛の糸》」が演奏された。

 

伊福部昭作曲、今井重幸構成・編曲による「オーケストラの為の交響的舞踏組曲《プロメテの火》」は、もともと舞踏家・江口隆哉と宮操子によって制作・舞台初演された作品。伊福部の弟子のひとり今井が、2009年にピアノ四手版から構成・編曲した。同じ年に、オリジナルのオーケストラ・スコアも発見され、2013年広上淳一指揮、東京交響楽団により再演された。

 

ストーリーは、火をもたない人間に同情したプロメテは、大神ジュピターの拒否にさからい、火を盗み人間に与える、というプロメテウスとジュピターのギリシャ神話を翻案したもの。

 

おどろおどろしい「前奏曲」、ゴジラのテーマを思わせる第3曲「間奏曲その1」、タイトル通りの印象のある第6曲「魔神の踊り」、フルートの抒情的な旋律が印象的な「アイオの変身」、土俗的なリズムに始まり、狂乱に終わる第10曲「舞曲その1」から第11曲「舞曲その2」など、全11曲が演奏された。海外のオーケストラにも取り上げてほしい、エネルギーに満ちた舞踏音楽だった。

 

 

2曲目は、芥川也寸志「舞踏音楽《蜘蛛の糸》」。父、芥川龍之介の原作から、也寸志が独自に作った台本を、朗読の鈴木美登里が読み上げながら進行。1968年の作品で、クラスター音楽など当時最先端の語法も使われ、ドビュッシー的な和声も感じられる。鈴木美登里の朗読は、映像が浮かぶような素晴らしさがあった。この作品への拍手は、今日一番多かった。

 

ストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》は、コルネットが厳しかったが、中々の力演。ただ、拍手は余り多くなく、聴衆は、ニッポニカの演奏する、日本の作曲家の作品を聴きに来ていることが伺えた。コンサートマスターは高木和弘、ピアノは長尾洋史が担当した。

 

次回のコンサートは,6月21日(日)14時半、紀尾井ホールにて、野平一郎の指揮で、東京オリンピックにちなみ「1964年前後・東京オリンピックの時代」と題して、古関裕而「オリンピックマーチ」、入野義朗「交響曲第2番」、三善晃「管弦楽のための協奏曲」、團伊玖磨「交響曲第4番」が演奏される。


 

「ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 Live from Muza!」10万人が視聴

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約2週間ぶりのコンサート。
3月8日、「音楽の友」の取材で、「ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 Live from Muza!」へ。
無観客のコンサート。取材陣は3階下手で聴きました。

指揮の大友直人さんだけではなく、東京交響楽団もピアニスト黒沼香恋さんも、オルガンの大木麻理さんも、全力演奏でした。
詳しいレポートは「音楽の友」5月号(4月18日発売)に書きます。

今日のライブ配信は、なんと10万人が視聴したそうです。
ニコニコ生放送・登録会員(無料)に限り、3月14日(土)24時まで、1週間繰り返し視聴が可能です。
みなさんのコメントが面白いですね。拍手は「88888(=パチパチパチ)」でながれます。コメントは消すこともできます。
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv324588340




 

レオポルド・ヴァン・デア・パルス「交響曲第1番」上岡敏之新日本フィルが日本初演

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レオポルド・ヴァン・デア・パルス(1884-1966)をご存じの方はまずいらっしゃらないのでは?
ラフマニノフの親友であり、彼の勧めでグリエールに作曲を学びました。25歳で作曲した交響曲第1番は、1909年ベルリン・フィルにより初演され、25もの批評が出る大成功を収めました。

 
4月17、18日、すみだトリフォニーホールにて上岡敏之新日本フィルにより日本初演されます。
ぶらあぼ4月号では、作曲者の子孫であるトビアス・ヴァン・デア・パルスさんと新日本フィル、コンサートマスター崔(チェ)文洙さんの対談のレポートを書きました。こちらはネットでも公開されているので、下記からお読みいただけます。
https://ebravo.jp/digitalmagazine/bravo/202004/html5.html?fbclid=IwAR3kunXSA24z3WQZLY9_gSWUllIyuFo6luxjK10SjfEK77PU1KZ7Ksy1YV0#page=76
写真は対談後の記念写真。
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