武満徹が師事した清瀬保二さん居宅跡
思い出のコンサートその1 シャイー ライプチヒ・ゲヴァントハウス管 ブルックナー「交響曲第8番」

新型コロナウィルス感染拡大でコンサートがすべて中止になり、レヴューを書けないので
まだブログを始める前、mixiの日記に書いていた感想をひとつずつご紹介していきます。
今日はその第1回。
このコンサートの1週間後に東日本大震災が起こるとは思いもしませんでした。
2011年3月4日金曜日19時
サントリーホール
ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調(ノーヴァク版)
ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
指揮:リッカルド・シャイー
素晴らしいコンサートで満足度100%。期待したものが期待通り聴けた喜びを味わった。
ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を聴くのは今回が初めてだが、同オーケストラの長い歴史のなかでも現在のレベルは最高に近い状態にあるのではないだろうか。
弦楽器の音色に独特のものがある。特に中音域のヴィオラの音が、えもいわれぬ柔らかく美しい音色であり、チェロもまた素晴らしい。
ヴァイオリンは対向配置なので、中央から響くヴィオラとチェロの美音に酔いしれてしまった。
コントラバス10台、ハープは楽譜の指定通り3台というフル編成のオーケストラ。
シャイーのブルックナーは、各声部がきわめて明快で音楽の流れがすこぶるよい現代的な解釈でありながら、ゲヴァントハウス管の伝統と新しさの絶妙なブレンドの魅力(音色とハーモニーのブレンド)を最大限に引きだすことにより、ブルックナーの清澄な世界を十二分に表現していた。
シャイーは文字通り「全身全霊を込めた」渾身の指揮で臨み、オーケストラもそれに全力で応えた忘れがたい演奏になった。
第1楽章、第1主題のヴィオラの音を聴いたとたん、今夜のコンサートは素晴らしいものになると直感した。そのあとに続く全オーケストラの総奏が素晴らしい。
第2楽章のスケルツォ、トリオでのハープが美しい。主部の再現部のみ緊張感をわずかに欠いたように聞えたのは、演奏のあまりの集中力に疲労を感じたためだろうか。しかしこれ以上は望めないくらい本気に燃えに燃えた演奏を続けてきた指揮者とオーケストラのほんの一瞬のスキのようなもので、全くマイナスには思えない。
第3楽章のアダージョのシンバル、トライアングル、ハープと金管の全奏によるクライマックスは壮絶さに息が止まったかと思うほど。そののちコーダに向かう部分は激しいクライマックスとの動と静の対比が素晴らしく感動的だ
第3楽章が終わった途端にファーストヴァィオリンの副首席が後ろの奏者二人とコンサートマスターに目配せをして「素晴らしい、最高の出来だ」というように満足しきった表情を見せていたのが印象的だった。
第4楽章に入る前、シャイーはそれまでの緊張をほぐすかのように長い間合いをとり、それからおもむろに指揮棒を取り上げた。
金管のコラールとトランペットのファンファーレ、ティンパニ(素晴らしい奏者!)の強打による第1主題は、芯のあるしっかりとした濁りのない輝かしい響きだ。金管は全楽章を通して存在感を示し、シャイーも最強音でははばかることなく思い切り吹かせ、爽快な気分になるほどであった。
第4楽章のコーダは、今夜の演奏全体の中の白眉で、輝かしいファンファーレと冒頭主題による力強い響きが全曲を結んだ時、初演時ヴォルフが言った「闇に対する完全な勝利」「ローマ皇帝でさえこれ以上は望み得ないほどの勝利」を勝ち取ったのはシャイーとライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団そのものであった。
そして、最後の音が消えシャイーの棒がおりるまで、拍手とブラヴォをとどめたサントリーホールの成熟した聴衆もまた等しく勝利に酔いしれたのだった。
Chailly (c)Gert Mothes
思い出のコンサート2 フェリシティ・ロット ソプラノ・リサイタル (2011年4月19日)
フェリシティ・ロット ソプラノ・リサイタル
ピアノ:グレアム・ジョンソン
都民劇場第586回定期公演
ピアノのグレアム・ジョンソンの伴奏は見事の一言。単なる伴奏ではなく歌手と一体になって音楽をつくりあげ、アメリンク、マティス、ポップ、シュヴァルツコップほかの一流歌手の伴奏で名をはせているだけの実力を発揮していた。
後半はイギリス歌曲(ブリッジ「ゴー・ノット、ハッピー・デイ」、ヴォーン・ウィリアムス「静かな真昼」、クィルター「愛の哲学」、ブリテン「おお悲しい」ほか)と、オペレッタなどから6曲(オッフェンバック「あの人に伝えて」-オペレッタ「ジェロルスタン大公妃」より、メサジェ「恋は野の鳥」-オペレッタ「熱中」より、カワード「ピッコラ・マリーナのバーで」ほか)。
そしてオペレッタではユーモアあふれる表現力と演技を交えて客席の笑いを誘った。しかしながら、その芸術的感性は驚くべきもので、細やかなフレーズまで完璧に歌い表現する歌唱には心底驚かされた。
『このひどい状況のなか今夜いらしてくれてありがとうございます。皆様は素晴らしい。』
(こちらこそ、そのセリフをそのままロットに返したいところだ。)
『ここは素敵なホールです。もう17年になりますでしょうか、「ばらの騎士」で歌って以来です。』
(これには本人も客席も苦笑。)
アンコールの2曲はプーランクの「愛の小径~ワルツの調べ」と、ビゼー「ギター~「アルバムの綴り」より」。ビゼーの曲はコロラトゥーラのような難しいパッセージが印象的。
『リヒャルト・シュトラウスの《明日の朝(Morgen)》を歌います。日本の皆様にとって、あすの朝が今日よりもより良い素晴らしい朝でありますように祈っています。』
ジョンソンの祈りのような静かなピアノの前奏に続き、「明日再び太陽は輝く・・」と歌われる歌には涙が止まらなかった。本当は幸せな恋の歌であったとしても…。ピアノが消えゆくように終わったあとの長い沈黙は、震災の犠牲者の方々への聴衆の自然発生的な黙祷であったと思う。
拍手に応えるロットの目にも涙が光っていた。
新型コロナウィルス感染拡大の今、この歌は心に沁みます。
https://www.youtube.com/watch?v=9ed9_mp5YXc
思い出のコンサート3 飯守泰次郎 東京シティ・フィル 小林美樹(2011年4月28日)
2011年4月28日金曜日14時
東日本大震災復興支援演奏会
東京オペラシティ コンサートホール
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
指揮:飯守泰次郎
ヴァイオリン:小林美樹
曲目:
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品77
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ワーグナー:
「ローエングリン」からファンファーレ(休憩ロビーにて)
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「ワルキューレ」よりワルキューレの騎行
ジークフリート牧歌
「神々の黄昏」より夜明けとジークフリートのラインへの旅
「ローエングリン」より第1幕への前奏曲
「ローエングリン」よりエルザの大聖堂への行列(結婚行進曲)
「ローエングリン」より第3幕への前奏曲
座席:3階L1列21番
飯守泰次郎のプレトークは大震災で日本全体が深く傷つき疲弊しきっているが、それでも被災地や被災者の方々への息の長い支援が必要だという話から始まり、続いてショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番」とソリスト、小林美樹の紹介があった。
飯守の言葉通り、前半のショスタコーヴィチを弾いたソリストの小林美樹の力量には驚嘆した。堂々としたステージマナーは今年21歳の新人とはとても思えない。
まずヴァイオリンの音色が美しい。加えて40分余りの大曲を最後まで演奏が弛緩しないで、やすやすと弾きこなす技術と体力に圧倒された。
その演奏にはショスタコーヴィチ作品の持つ冷徹さ、皮肉と諧謔へのアプローチというより、この協奏曲を完成された純音楽作品としてとらえて表現しようとする強い意欲があったと思う。その結果聴き手としてはヴァイオリンの持つ音色の美しさに酔うと同時にある種の爽快さも感じられた。
第3楽章の長大なカデンツァを楽々と弾ききり、第4楽章の猛烈に早いフィナーレをオーケストラとともに見事に決めたとき、すかさず盛大な拍手とブラヴォが起こった。
現在ウィーン市立音楽大学に留学中という。CDなどもまだ録音していないようだが、どこかメジャーな事務所に属しているのだろうか。(注:現在オクタヴィアから3枚のアルバムを発売。マネジメントはAMATI)
先が楽しみな音楽家である。大成することを期待したい。
youtubeには、フランクのソナタを弾いている画像があった。今日の演奏の一部を想起させる部分もあるが、生演奏のほうが数段よかった。
http://www.youtube.com/watch?v=mLz_16D3JWs
ロビーでは後半の開演を知らせるトランペット奏者4人による「ローエングリン」からのファンファーレが演奏された。バイロイト音楽祭のようでしゃれた趣向。
後半は飯守泰次郎さん得意のワーグナープログラム。
スケールの大きなゆったりとしたテンポでじっくり聞かせる正統派ワーグナーに満足する。
特にローエングリンの第1幕前奏曲でのインテンポの深みのある表現、第3幕前奏曲の重厚感ある演奏が特に良い出来であった。
シティ・フィルは数年前飯守指揮の「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式を聴いて以来だが、そのとき感じた印象と同じく若い奏者を中心としたバランスのいいオーケストラだ。弦にはしっとりとした質感がある。管楽器は<「ローエングリン」よりエルザの大聖堂への行列(結婚行進曲)>での音程の乱れや、<「神々の黄昏」より夜明けとジークフリートのラインへの旅>での、ホルンがひっくり返るところもあったが全体として健闘していた。
思い出のコンサートその4 尾高忠明 N響 スティーヴン・イッサーリス(2011年5月13日)
2011年5月13日金曜日19時
NHKホール
NHK交響楽団
指揮:尾高忠明
チェロ:スティーヴン・イッサーリス
曲目:
ウォルトン:チェロ協奏曲
エルガー:交響曲第3番(ペイン補筆完成版)
イギリス音楽を得意とする尾高忠明による意欲的なプログラム。
(ゲスト・コンサートマスターにウィーン・フィルのライナー・キュッヒルが座っていたためかN響の音が微妙に変わっていた。ウィーン・フィルのあの少し高音が強調された品のいいサウンドが時々聴けたのはラッキーだ。)
プログラムはどちらも生で聴くのは初めての曲。NAXOSの「ミュージックライブラリー」で予習してから出かける。
ウォルトンのチェロ協奏曲は面白い曲だ。なんだか皮肉たっぷりにも聞こえる。チェリストのピアティゴルスキーから委嘱された作品で、第3楽章の終結部があまりさみしく終わるのでピアティゴルスキーの依頼で作曲しなおしたが、ピアティゴルスキー本人が亡くなりそのままお蔵入りになったという。そうなってよかった。静寂の中に消えゆくような終わり方は秀逸で、ステレオタイプな感想だが「これぞイギリスの作品」と賛辞を送りたい。
イッサーリスのチェロを生で聴くのは初めて。この曲はイッサーリスに性格的にも合っているのでは?高踏的でどこか覚めていて、感情を抑えながら秘めた情熱を感じさせるという印象からして。
アンコールはカザルスの「鳥の歌」。ひそやかに哀しげに、どこか遠い世界から聞こえてくる鳥の声。感動した。
エルガー:交響曲第3番(ペイン補筆完成版)は作曲の経緯が特異なもの。エルガーが130ページのスケッチを残して亡くなったあと、イギリスの作曲家アンソニー・ペイン(1936年生まれ)が長年にわたり遺稿を研究し、エルガー家の同意とBBCの協力を得て1997年に完成させた。
「真正のエルガーではない」という批判は絶えないが、1998年の初演は大成功、CDも少なくない数が発売されている。
尾高忠明自身日本での初演者であり、札幌交響楽団を指揮してレコーディングも行っている。(レーベル:Signum Classics 品番:SIGCS118)
今回のN響との演奏にも意欲満々で臨んでおり、その共感がオーケストラメンバーにも浸透した熱い演奏になった。
第1楽章冒頭の壮麗な響きから、「うん、確かにエルガーだ」という感慨にふける。ただ構成はシンプル。
第2楽章はエルガーの劇音楽『アーサー王』の「舞踏会」に基づくという間奏曲。哀愁があって優雅な美しい楽章。時々入るタンブリンの寂しげな音が効果的で、通俗趣味かもしれないが一番印象に残った。
第3楽章アダージョ・ソレンネ。「巨大なブロンズの扉を開くと不思議なものが見える」というエルガーの言葉のイメージで作曲された。ミステリアスでどこか懐旧的な緩徐楽章。
第4楽章アレグロ。晴れやかなファンファーレで始まる。劇音楽『アーサー王』に使われたテーマなどが現れ騎士道的な戦いの音楽が展開されているという部分は、確かにイギリス的な雰囲気が醸し出される。音楽は威厳を保ったまま徐々に減衰していきタムタム(銅鑼)の一打でどこかエキゾチックに謎のように終わる。
帰宅後、エルガーの交響曲第1番、第2番をコリン・ディヴィス指揮ロンドン交響楽団で聴いてみた。(NAXOS「ミュージックライブラリー」)
第1番は圧倒的に名作。第2番はブラームスにたとえるなら第3番のような渋さを持つ深みのある曲。それらとこの第3番を比較すると、同じ俎上には載せられないのではないか。エルガーの意図をどこまで反映しているのか量ることは至難だ。
しかしよく作曲されている名作であり、今後スタンダードとして定着していくだろう。
N響のコンサートでは珍しいほど多くのブラヴォが飛んでいたのも、聴衆からの尾高忠明への賛辞と同時にペインへの感謝の気持ちも込められていたのではと思う。
最後にうれしいハプニングが待っていた。コンサート終了後出口に向かっていたところ、イッサーリス夫妻も客席でエルガーを聴いていたらしく混雑している通路で一緒になった。
カザルスとは全く違う「鳥の歌」の感動を伝えたく、
“I was so moved by your performance. "Song of Birds", It’s very different from Casals’ version. I like it.”
と話しかけたところ
“Yes, very different. I love Casals.”
との返事が返ってきた。
注:その後2度アンコールで、イッサーリスの「鳥の歌」を聞いた。直近は、今年1月21日の尾高忠明大阪フィルハーモニー交響楽団と共演した時。編曲者はビーミッシュと表示された。イギリスの女性作曲家、サリー・ビーミッシュのことではないだろうか。
ケント・ナガノ 青山学院管弦楽団 藤村実穂子 東日本大震災復興支援 (2011年6月5日)
2011年6月5日日曜日15時
東日本大震災復興支援チャリティ・コンサート
指揮:ケント・ナガノ(バイエルン国立歌劇場総監督)
メゾ・ソプラノ:藤村実穂子
管弦楽:青山学院管弦楽団
青山学院講堂
座席:1M27
曲目:
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界より」作品95
J.S.バッハ/野平一郎編曲:種々の楽器による「フーガの技法」(2002)より
J.P.ベンテュス編曲:5つの日本の歌
「七つの子」「赤とんぼ」「赤い靴」「青い眼の人形」「夕焼け小焼け」
アンコール:「さくらさくら」
日系三世でもあるケント・ナガノが日本のため何かできないかと強く希望し、バイエルン国立歌劇場の記者会見に来日した折を捉えて実現したコンサート。
収益金は岩手県大槌町の教育委員会に送られ、津波で流された学校の楽器購入に寄付される。
舞台上に学生たちが揃いチューニングが終わり、ナガノの登場を待つ聴衆の前に現れたのは日本舞台芸術振興会の担当者。
企画実現の経緯、関係者への謝意、昨日サンフランシスコから到着したナガノが夕方6時から10時までのわずかな時間でリハーサルを行ったこと、2泊3日のきわめて短い来日を伝え、ナガノからの長いメッセージを読み上げた。
要旨は「音楽の持つ美と創造性が現実の悲惨さを超え我々を高みに上げ、希望を与えること。創造性と可能性にあふれた青山学院管弦楽団の若者たちが将来の社会をリードするだろう。」というもの。
ナガノがスーツ姿で登場する。「新世界より」第1楽章序奏後にオーケストラ全員が奏でる気迫のこもった熱気を含んだ音を聴いたとき、「世界的マエストロが素人に近い学生オーケストラを指揮するとどんな演奏になるのか?」という浅薄な気持ちは吹き飛んだ。
ナガノは学生たちに仮借なく深みのある音を要求する。それを実現すべく必死でくらいついていく彼らの姿から、久しく味わったことのない無垢で純粋な気持ちが伝わってくる。
難しい箇所で管楽器が時々音をはずす。そんな傷はたいしたことはない、と思う。
彼らは今まさに目の前で、技術以前の音楽に対する真摯さと心構え、音楽の持つ本来の意味を学び掴み取って実践しようとしている。否、実践できている。その姿が聴くものに感動を与える。
最後の音が消えたあと、2000名近い満員の聴衆から盛大な拍手とブラヴォが送られた。
後半の「J.S.バッハ/野平一郎編曲:種々の楽器による「フーガの技法」(2002)」は、未完で終わった終曲のフーガを編曲したもの。会場に来ていた編曲者、野平一郎自身が紹介されたのち「この曲を東日本大震災の被害者の方々に捧げるので拍手は控えて黙祷してください。」というアナウンスがあった。
室内オーケストラのために編曲された曲は、突然の休止で終わる。休止後の無音は津波に奪われた命を表わすかのように痛切に響いた。
藤村実穂子さんを生で聴くのは初めて。滑らかでよく通る声。
6月には新日本フィルとの「トリスタンとイゾルデ」でブランゲーネを歌うというので、楽しみだ。
日本の歌がベンテュスの編曲を得て哀切さから解き放たれ、旋律と歌詞の美しさを素直に伝えるものとなっていた。
アンコールは「さくらさくら」。これもベンテュスの編曲だろうか。
青学の緑多いキャンパスの中を歩いて帰る。何かを教えられ学んだ一日となった。
ケント・ナガノ©Felix Broede
思い出のコンサート5 メトロポリタン歌劇場管弦楽団特別コンサート (2011年6月14日)
思い出のコンサート5 メトロポリタン歌劇場管弦楽団特別コンサート
ダムラウ フリットリ ベチャワ クヴィエチェン
サントリーホール(2011年6月14日)
新型コロナウィルス感染拡大でコンサートがすべて中止になり、レヴューを書けないので、ブログを始める前に書いた感想をひとつずつご紹介していきます。今日はその第5回
ディアナ・ダムラウ©uergen Frank
https://ameblo.jp/baybay22/entry-12587086179.html
2011年6月14日火曜日19時
サントリーホール 座席:1階11列31番
メトロポリタン歌劇場管弦楽団特別コンサート
指揮:ファビオ・ルイジ
ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)
バルバラ・フリットリ(ソプラノ)
ピョートル・ベチャワ(テノール)
マリウシュ・クヴィエチェン(バリトン)
曲目:
1. ベッリーニ:歌劇「ノルマ」序曲
2. ベッリーニ:歌劇「清教徒」より
リッカルドのアリア“おお、永遠に君を失った” マリウシェ・クヴィエチェン(バリトン)
3. ベッリーニ:歌劇「清教徒」より
エルヴィラのアリア“優しい声が私を呼んでいる・・・さあいらっしゃい愛しい人よ”
ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)
4. R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
<休憩>
5. ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
6. ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」よりレオノーラのアリア“穏やかな夜”
バルバラ・フリットリ(ソプラノ)、エディタ・タルチャク(メゾ・ソプラノ)
7. ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」よりリッカルドのアリア
“永遠に君を失えば”
ピョートル・ベチャワ(テノール)
8. R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」作品20
9. アンコール:プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」より第2幕間奏曲
ネトレプコを聴きたいがために手に入れたプラチナ・チケットだが突然のキャンセルでがっかり。
変更は以下のとおり。
・健康問題でレヴァインがルイジに交替。
・5月28日ネトレプコ原発問題でキャンセル。(クヴィエチェンは予定通り。)
・5月31日ダムラウ、フリットリ、ベチャワ出演決定。
・6月3日曲目決定。
開演に先立ちメト総裁ピーター・ゲルブが登場し非常事態のなかコンサート実現に努力したルイジとオーケストラ、歌手を讃えたが、結果的にはその言葉が充分納得できる水準の高い出来栄えであった。短時間でこれだけまとめあげた指揮者&オケと歌手に拍手を贈りたい。
歌が少なすぎると友人たちは大いに不満だったが、当夜の主役は実はオーケストラではなかったか?
輝かしい金管、芯のしっかりとした木管、華やかで艶やかなヴァイオリン、ニスが飛び散るようなチェロ、木目の肌触りのヴィオラ、重戦車のようなコントラバス、床を響かせる打楽器。
その音は圧倒的で、アメリカン・パワーそのものだ。メンバーにはコンマスをはじめアジア系奏者も多い。
「ノルマ」、「運命の力」の序曲は順当な選曲として、シュトラウスの2曲が選ばれたのは、ルイジが得意とするレパートリーでオケの能力を誇示するために最適だったからだろう。「ティル」といい「ドン・ファン」といい、オーケストラ作品だけでも充分楽しんだくらいで、このようなオケ伴で歌える歌手は幸せだ。
その歌手では、まずはダムラウ。ベッリーニ「清教徒」“優しい声が私を呼んでいる・・・さあいらっしゃい愛しい人よ”。
「狂乱の場」として「清教徒」の見せ場でのアリアは超絶技巧が要求されるコロラトゥーラが聴きもの。
ダムラウの透明感ある高音の連続こそベルカントの快感。グルベローヴァの強靭さとは異なる声だが、繊細な白ワインのような味わいがたまらない魅力だ。
後半のフリットリは「イル・トロヴァトーレ」よりレオノーラのアリア“穏やかな夜”を
力強い歌唱で歌い切り、ムーティ&ミラノ・スカラ座のCDで聴いた通りの充実感を味わった。
音程を取るのが難しいバリトンで歌われる「清教徒」のリッカルドのアリア“おお、永遠に君を失った”。クヴィエチェンは出だしわずかに音をはずしたが、すぐに持ち直し、上下する難しいフレーズをしっかりと聴かせてくれた。
テノールのベチャワも、歌劇「仮面舞踏会」リッカルドのアリア“永遠に君を失えば”で、よく通る歌声を聴かせた。
アンコール<「マノン・レスコー」第2幕間奏曲>の冒頭で聴いたチェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンのそれぞれのソロは、そのあとに続く分厚いオケの響きと共に、忘れがたい音として深く耳に刻まれた。
ディアナ・ダムラウ©Juergen Frank
バルバラ・フリットリ©DR
ピョートル・ベチャワ©Johannes Ifkovifs
マリウシュ・クヴィエチェン©Columbia Artists
思い出のコンサート6 「蝶々夫人」(新国立劇場、2011年6月15日)
新国立劇場 座席:1階1列30番
G. プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」
指揮:イヴ・アベル
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団
演出:栗山民也
蝶々夫人:オルガ・グリャコヴァ(ソプラノ)
ピンカートン:ゾラン・トドロヴィッチ(テノール)
シャープレス:甲斐栄次郎(バリトン)
スズキ:大林智子(メッゾ・ソプラノ)
ゴロー:高橋 淳(テノール)
ボンゾ:島村武男(バリトン)
ヤマドリ:松本 進(バリトン)
ケート:山下牧子(メッゾ・ソプラノ)
他
「蝶々夫人」を生で観るのは4回目。たった4回では舞台の良し悪しを言う資格は無いに等しいが、それでも今回の新国立劇場の「蝶々夫人」に滂沱の涙を流したことを正直に告白したい。
初めて観たのは1969年頃、外山雄三指揮京都市交響楽団が京都会館で行った公演で、砂原美智子が蝶々夫人を歌ったもの。
記憶がほとんどないが、当時砂原美智子は藤原歌劇団とともに日本語上演を多く行っていたと記録にあるので、恐らく日本語上演ではなかっただろうか。
生まれて初めて見た生のオペラであり、きらびやかな舞台装置と、砂原美智子の美しい蝶々夫人、外山雄三のきびきびとした指揮姿が印象に残っている。
次は1993年11月まで時が飛ぶ。ウィーンに行きウィーン国立歌劇場で観たもの。
指揮者も歌手名も記憶にない。プログラムをとっておけばよかった。
舞台と演出はウィーン国立歌劇場レパートリーシステムの定番ものだが、舞台装置や衣装は日本人が見てもそれほど違和感がなく、蝶々夫人を歌ったソプラノもドラマティックな熱唱でこれはこれで素直に感動した。
3回目は、1996年5月、東京文化会館でのヘネシーオペラ、小澤征爾指揮新日本フィルハーモニー交響楽団。浅利慶太の演出は歌舞伎や能の様式を取り入れ、自決の場面では白い布が黒子により真紅に変えられていく方法で話題になったものだが、肝心の小澤征爾の指揮と蝶々夫人のガリーナ・ゴルチャコーワの歌唱には感動した記憶がない。
ただシャープレスをブリン・ターフェルが演じていたと「小澤征爾・オペラ指揮者30年の歩み」(「音楽之友社ムック」)にあり、もっと真剣に聴いておくべきだったかもしれない。
そして、昨日の新国立劇場での「蝶々夫人」。
演出の栗山民也による舞台は、奥に障子があるだけの三方が開いた日本間、その横に2階建ほどの高さの巨大な階段を設け、そのさきは四角い窓(空間)、そこに星条旗がたなびいているきわめてシンプルなもの。
全てはこの舞台で展開する。
蝶々夫人の衣裳は、花嫁のときと自害するときは同じものだが、その純白さが胸を打つ。
特筆すべきは、蝶々夫人を歌ったロシア生まれのオルガ・グリャコヴァの歌と演技。
日本髪がこれほど似合う海外の歌手は珍しい。しかもその立ち居振る舞いは奥ゆかしく、正座から立ち上がるときはすこしつらそうだったが、まさに日本人そのもの。
表情も日本人かと見間違うほどで見るものを引きつける。
今回は最前列でオペラグラスの必要なく、歌手の表情、声が心行くまで味わえた。
やはりオペラは最前列に限る。オーケストラの音量もちょうどよいブレンド感で聞こえた。
字幕もなんとか見られて細かな歌詞を追うのに役立った。
グリャコヴァは最初から最後まで声量が落ちることなく、声に力がこもっていたし、シャープレスの甲斐栄次郎はすでに海外で大活躍している現役バリバリのもの。ピンカートンのトドロヴィッチも見映えが良く声質もまずまず。スズキの大林智子の演技力もよかった。
涙がとめどもなく流れた理由は、もちろんプッチーニの日本の曲の見事な使い方(とりわけ「越後獅子」のメロディー)と、プッチーニの卓越したメロディーメーカーぶりにあるが、今回はグリャコヴァの美しさと品格ある演技、迫真の歌唱が栗山民也の演出の趣旨を100%満たしたからだと思う。
ここまで書いてきて初めて、プログラムの栗山民也への今回の演出の意図のインタビューを読んだ。
演出のコンセプトは「100年前の西洋と東洋の主従関係と対立」であり、蝶々さんについては、「自ら招いた悲劇」と厳しい。
さらに、「日本人が<蝶々夫人>を演出すると、様式的に細かい<日本>にとらわれ、ピンカートンが悪玉というとらえ方に陥りやすい」と言い、「たとえピンカートンが欲望の対象として蝶々さんを思ったかもしれないが、一瞬彼女の美を発見し、幸福の瞬間が絶対にあったと思う。」とも言う。
最後に特に感動した場面は以下のとおり。
第1幕、蝶々さんが友人たちとともに登場する場面。合唱の美しさに心が揺さぶられる。
第1幕最後の「愛の二重唱」は数多いオペラの二重唱のなかでも個人的にはナンバーワン。
第2幕は、もちろん「ある晴れた日に」で涙。
シャープレスがピンカートンの手紙を読む「手紙の二重唱」で蝶々さんが見せる無邪気な表情と落胆。
シャープレスが「もし彼が帰らぬ時は?」といい「ヤマドリの申し出を受けたら」と言われたのち、子供を連れて戻り「子どもの名前は、今は<悩み>だが、あの人が帰ったら<喜び>とする」に「ある晴れた日に」の旋律がかぶさるところでまた涙。
第2場、自害しようとすると子供が駆け寄ってきて歌う「かわいい坊や(お前、お前、小さい神様)」で滂沱の涙。
観客のほとんどが泣いていたと思う。少なくとも一緒に行った友人たちは泣いていた。
指揮のアベルは来シーズン、メトロポリタン歌劇場でも「蝶々夫人」を振るという。
東京フィルとともに、歌手たちとの一体感をつくりあげたいい指揮ぶりだったと思う。
©新国立劇場
思い出のコンサート7 ハーディング 新日本フィル ブルックナー8番(2011年6月18日)
2011年6月18日土曜日14時
すみだトリフォニーホール
ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調(1890年稿 ノーヴァク版)
指揮:ダニエル・ハーディング
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:崔(チェ)文洙
ハーディングの深い楽譜の読み込みと確信に満ちた指揮に献身的に応えた新日本フィルハーモニー交響楽団の途切れない集中力が生んだ、史上まれにみる名演奏。
明晰で奥行きのある響きと極めて大きなダイナミック、筋肉質で引き締まったブルックナー。
弦楽器の緩みのない正確なリズム。金管管楽器の輝かしい音色。木管のクリアな音色。弦と管の絶妙なバランス。
新日本フィルがここまでのレベルに達していたとは正直思っていなかった。脱帽です。
ヴァイオリンを中心とした弦楽器群の刻むトレモロ、リズムは最初から最後まで全く弛緩
がなく、コンサートマスター崔文洙は全力でハーディングの指示に従い他の奏者を牽引し、ヴィオラ、チェロ、コントラバスは全曲を通し豊かで深みのある音を聴かせた。
ホルン奏者たち(5~8番ワーグナーテューバ持ち替え)のハーモニーも素晴らしかったし、トランペット、トロンボーンの最強音はブルックナーの求める響きを見事に実現していた。
ハーディングはプログラムの中で第8番について「非常な難曲で、前向きな努力と諦めない根性が課される作品だ」と語っている。その努力と根性が報われた結果となった。
ハーディングの解釈は王道を行くものだと思う。
第1楽章出だしのテンポはゆったりとして威厳に満ちていた。
369小節からのクライマックスでの集中度と金管の強奏の張りつめた緊張感も見事だった。
第2楽章のスケルツォに、第1楽章が終わるとすぐに入っていったのには驚いたが、緊張の持続を絶やさないという意図があったのかもしれない。
そのスケルツォでは弦と管が小気味よいリズムを刻み、トリオでのホルンの響きやハープのアルペッジョも美しい。主部が戻りスケルツォが輝かしく終わる。
第3楽章アダージョこそ第8番のハイライトだろう。3台のハープが刻む、夢見るようなアルペッジョ。チェロとワーグナーテューバの第2主題のやりとりも美しく格調があった。
第239小節からのシンバルも入るクライマックスも緊張感がいっぱいで、最大の聴きものだった。
ハーディングはブルックナーの「荘重にゆっくりと、しかしひきずらないように」という指示を理想的に具現化していたと思う。
第4楽章冒頭から弦楽器が刻むリズムに金管のコラールとトランペットのファンファーレが加わりティンパニが強打される部分ほどブルックナー・ファンの気持ちを高揚させる箇所はないだろう。金管の輝かしさとティンパニの強打も期待通りのダイナミックがあった。
コーダは指揮者によってテンポをおとして長く引き伸ばすタイプと短く感じさせ爆発的にやるものがあると思うが、ハーディングはそうしたテンポの変化を感じさせない、最初から最後まで持続した音楽の勢いと流れの集大成ともいうべき素晴らしく輝かしいコーダだった。ただ一つ不満は、ハーディングの指揮棒が完全に下りる前の一部聴衆からの拍手。せっかくの名演の余韻を台無にしてしまった。
弱冠36歳にしてこれだけのブルックナーを聴かせたハーディングの実力は恐るべき。
何度目かの拍手に応えてステージで出てきたハーディングが大きな花束を抱えている。
一体誰に?と思ったら、たぶん定年で退職する楽員だろう、第1ヴァイオリンの最後列の奏者に手渡した。全楽員からも拍手が送られ、心温まる瞬間だった。
ロビーに出ると、あんな大曲を振ったばかりのハーディング自ら募金箱を持って東日本大震災の義捐金を呼びかけている。“I was so moved!” と伝え千円札を入れると“Thank you.”と答えてくれた。
ハーディング©Askonas Holt
思い出のコンサート8 ハーディング 新日本フィル マーラー「交響曲第5番」(2011年6月20日
2011年6月20日月曜日19時25分(総武線事故のため開演10分遅れ)
すみだトリフォニーホール
チャリティーコンサート -3.11 東日本大震災、明日への希望をこめて-
エルガー:創作主題による変奏曲「エニグマ(謎)」Op.36より
第9変奏「ニムロッド」(東日本大震災で亡くなられた方々へ捧げる)
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮:ダニエル・ハーディング
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
18日のブルックナー8番があまりにも素晴らしかったので、当日券を電話予約。
最初に「ニムロッド」が拍手辞退で演奏された。弦にふれるかふれないかのような出だしで始まり厳粛さをもって終わる。しばし黙祷。20秒くらいして顔を上げるとハーディングが指揮棒を下したところだった。
ハーディングのマーラーは二度目。5年前東フィルとの「復活」は勢いのある名演だった。
第1楽章トランペットの出だし、ハーディングはアイコンタクトか腕は動かさない。輝かしい響きで始まるかと思っていたら、むしろ控えめでくすんだ音色。
第1、第2楽章は、オーケストラがあまり乗っていないように感じた。管も弦も集中力に欠け、引きつけられるものがない。ブルックナーの疲労が残っているのだろうか。
しかし、第3楽章スケルツォから第4楽章アダージェット、第5楽章ロンド、フィナーレ へと楽章を追うごとにどんどん演奏内容がよくなっていった。
アダージェットの後半、弦の奏でるフレーズの、たゆたうような宇宙的な感覚はこれまでどの指揮者からも聴いたことがないものだった。
ハーディングはここぞというとき息を吐きながら指揮をする。そこには力みがまったくない。3列目指揮台の真下でその息遣いがはっきり聞き取れる。オーケストラは彼の息遣いに合わせ一緒に呼吸するようにフレーズを作り、聴衆も同じように呼吸しながら音楽を聴く。ハーディングの魔法のような音楽の秘密がわかったような気がする。
第4楽章アダージェットから第5楽章へ続けて入っていく。第2楽章で現れたコラールが今回は堂々と光り輝くように、希望の明かりであるかのように鳴り響く。すさまじいコーダに突入していき、嵐のように終わる。この部分の指揮者とオーケストラはまるで一丸となった火の玉のように思えた。
今回の演奏で思い出したエレーヌ・グリモーがインタビューで紹介したクラウディオ・アバドの言葉がある。
『ほとんどの人がライヴ演奏の価値を理解していないと私は思う。それは演奏全体の美しさでも、再現の完璧性でもない。ただひとつのことで、最良の場合でもひとつのコンサートで2、3秒しか起こらない。それは、時間が止まったところ、あるいは時間の概念が膨張したところに生まれる感情である。』(レコード芸術2011年5月号)
まさに、この言葉を今晩のコーダに捧げたい。
ハーディング©Askonas Holt
思い出のコンサート9 大植英次 東京フィル 小曽根 真(2011年7月5日、サントリーホール)
サントリーホール 指揮:大植英次 ピアノ:小曽根 真
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 コンサートマスター:三浦章宏
第805回サントリー定期シリーズ
小倉 朗:管弦楽のための舞踏組曲/モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
/アンコール:ビル・エヴァンス:ワルツ・フォー・デビー/ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
大植英次と小曽根真はボストン留学時代(大植はニューイングランド音楽院、小曽根はバークリー音楽大学)から面識があり、2008年2月には大阪フィルとガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」で5回共演のほか、ホルシュタイン・シュレスヴィッヒ音楽祭では同曲で北ドイツ放送響とも共演した親しい仲。
ふたりの奏でるモーツァルトは楽しさという点では無類で、正統クラシック派を任ずる人から見れば異端に映るかもしれないが、私はとても楽しんだ。表現はクラシックピアノとはかなり異なる。タッチは軽く平板で明るい。しかし演奏全体に乗りのよいドライブ感があり、ジャズを感じさせる。楽譜通り弾こうとしても身体からジャズのフィーリングがにじみ出てくる。それがユニークで面白い。
カデンツァは小曽根のオリジナル。第1楽章では不協和音とも聞こえるような和声が大胆。第3楽章でのある箇所で行きつ戻りつ繰り返されるフレーズはセロニアス・モンクのピアノを思い出させる。大植は12型の編成をたっぷりと響かせ、ふくらみを持たせた柔らかなニュアンスで小曽根とのコラボレーションを盛り上げる。
最初は「こんないい加減なタッチのモーツァルトでいいのかな」と思っていたが、聴きすすむにつれ「これは面白いぞ」と引き込まれていった。聴衆は正直だ。「いやぁ楽しかった。こんなモーツァルトもあっていいんだよね。」という反応を示すかのような、気持ちの込もった大きく暖かな拍手が止まらない。
ついに大植が小曽根を舞台にひっぱりだし、ピアノの椅子を手で払い清めるふりをして「じゃあ聴かせてもらおうか」とばかりに指揮台に腰掛ける。アンコールはビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」。エヴァンスのリリカルな曲が最新のモードにお化粧直しされて夢見るような美しさで現れた。「ビューティフル!」としか言えない極上のピアノ。サントリーホールが一瞬でマンハッタンのジャズクラブに姿を変えた。小曽根 真の使用したピアノはヤマハCFX。彼のコンサートのたびにヤマハが会場に運び調律などの協力を行っているという。
メインのブラームスの交響曲第1番、一昨年大阪フィルとやったマーラーの第5番で見せた超スローテンポの大植節がどういうかたちで出るのか注目していた。
第1楽章から第3楽章までは、インテンポのしごくまっとうな演奏。しかし第4楽章6小節目からの弦のピチカートから思い切りテンポを落とした。そして、そのスローテンポを維持したまま最後まで押し通した。結果、ブラームスがブルックナーのように聞えてきてしまった。東フィルもよくあの遅いテンポについていったものだ。
最初に演奏された小倉朗(1916-90)の「管弦楽のための舞踏組曲」は大植英次のメリハリある指揮にぴったりの野性味ある作品で、名演だった。拍手に応え、楽員のパート譜を取り上げ胸に抱いた大植は、表紙を指差しながら「拍手は小倉朗先生に!」とアピールしていた。
「音楽の友」5月号と、ムックの「ベートーヴェン 32のピアノ・ソナタ」に書きました
「音楽の友」5月号と、ムックの「ベートーヴェン 32のピアノ・ソナタ」が送られてきました。
店頭発売は4月18日(音友)と、5月1日(ムック)だと思います。
ただ、緊急事態宣言が全国に適用される中、書店も図書館も休業が多いので、アマゾンなど、ネットを通さないとすぐには読めないかもしれません。
「音楽の友」には、Rondo164ページに、東京交響楽団の無観客ライヴ配信(3月8日名曲全集@ミューザ川崎)のレポートと、
そのコンサート・レヴュー(149ページ)を書きました。
「ベートーヴェン 32のピアノ・ソナタ」には、
『心に残るベートーヴェン「ピアノ・ソナタ」ライヴ&ディスク』の8人の執筆者の一人として、
145ページにピーター・ゼルキンとエリソ・ヴィルサラーゼのリサイタルの思い出と、エリー・ナイのディスクについて書きました。
お読みいただけたら、うれしいです。
アルミンク&新日本フィル 「トリスタンとイゾルデ」リハーサル(2011年7月4日)
コンサートの中止や延期が相次ぐため、ブログで未紹介の感想をご紹介しています。
2011年7月4日月曜日午前10時30分~午後12時45分
すみだトリフォニーホール
指揮:クリスティアン・アルミンク
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
ワーグナー作曲 楽劇「トリスタンとイゾルデ」管弦楽のみのリハーサル
7月16日(土)、18日(祝・月)の2回上演が予定されているコンサート・オペラ「トリスタンとイゾルデ」のリハーサルを見てきた。わたしは18日に行く。
地震直後日本を離れたアルミンクと新日本フィルの関係を多少危惧していたが、今日のリハーサルを見る限りでは、お互いプロに徹しようという目的意識の一致が感じられた。
はじめにアルミンクがマイクを持ちドイツ語で話し、進行兼通訳の人が訳す。今日は第3幕の譜読みを行うこと、このオペラはワーグナーにとって一番大切な曲で、19世紀当時のウィーン国立歌劇場では技術的に上演は不可能と受け止められたことなどを紹介し、リハーサルをお楽しみくださいとあいさつした。月曜日の朝にもかかわらず200名くらいの聴衆が詰めかけていた。
早速リハーサルが始まる。第3幕前奏曲の冒頭の低弦の「孤独の動機」からイングリッシュ・ホルンのソロ「嘆きの動機」まで通して演奏。第1場の前でいったん止める。
イングリッシュ・ホルンの見事なソロにほかの楽員から足踏みや楽器をたたいての称賛が送られた。
アルミンクは小節番号を日本語で伝え、英語とドイツ語も交えて的確に指示していく。たとえば38小節のフォルティシモは非常に強くしてほしいとか、41小節は(指示はないが)メゾフォルテにしてほしい、というように。
219小節からスタートしてイングリシュ・ホルンのソロのあと、また何か指示をする。第1ヴァイオリン奏者たちがアルミンクの指示を一斉に鉛筆と消しゴムで楽譜に書き込んだり消したりしている。
ここでアルミンクの後ろに座って通訳をしていた事務方が、聴衆に「今日は<貸譜>のため鉛筆で書いてあるものの修正をしています。最初の練習ではこういうことはよくあることです。」と話した。
新日本フィルが「トリスタンとイゾルデ」を上演するのはめったにないことなので、ライブラリアンのところにパート譜がなく、レンタルで他のオーケストラも使ったものを借りてきているということだろう。
どんどん練習は進んでいく。
273小節からはアンサンブルが難しいのか、第1ヴァイオリンのみ分奏の練習。
今日は歌手との合わせはないが、361小節のトリスタン(テノール)が“Wel-ches Sehnen!” “Wel-ches Bangen!”と歌うところは伴奏が大きすぎると歌手の声が聞こえないので注意してほしいと指示していた。
15分の休憩後は606小節から弦楽セクションのみ分奏。597小節からのクレッシェンド、ピアノ、フォルテの書き込みを指示。
699小節から先はオーケストラにかなり長く演奏させたまま進んだ。
以下843小節、783小節、831小節、890小節から、という具合にいったりきたりしながら練習が進んだところで食事休憩。どうやら第3幕の第1場まで公開リハーサルを行ったようだ。
小節番号はアルミンクがしゃべったのをメモしたもの。間違っていたらごめんなさい。
今日が音合わせの初日にしては、新日本フィルはよくアンサンブルができていた。
音がワーグナーにしては明るい、強弱がはっきりしていると友人は言っていたが、なかなかの「トリスタンとイゾルデ」が聴けそうだと期待がふくらむ。リハーサルしたところが本番でどうなっているのか聴くのも楽しみのひとつだ。
本番については次回ご紹介します。
思い出のコンサート ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』コンサートオペラ(2011年7月18日)
コンサートの中止や延期が相次ぐため、ブログで未紹介の感想をご紹介しています。
2011年7月18日月曜日午後2時すみだトリフォニーホール
ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』コンサート・オペラ
指揮:クリスティアン・アルミンク
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
トリスタン:リチャード・デッカー
イゾルデ:エヴァ・ヨハンセン
マルケ王:ビャーニ・トール・クリスティンソン
クルヴェナル:石野繁生
メロート:桝 貴志
ブランゲーネ:藤村実穂子
牧童、若い船乗りの声:与儀 巧 舵取り:吉川健一
合唱:栗友会合唱団 合唱指揮:栗山文昭
演出:田尾下 哲
開演前、指揮のアルミンクが演出の田尾下に質問するかたちのプレトークがあった。
3つの質問がアルミンクから出され、田尾下は、→『』のように答えていた。
① 指揮者は初版スコアや文献を調べるが、演出家はどういう勉強の方法をするのか?→『楽譜を徹底的に読みこむ。師匠のミヒャエル・ハンペの教え通り、全ては楽譜のなかにある。また文献、上演史にもあたる。冒頭ツバメが髪の毛をくわえて飛ぶシーンがあるが、<トリスタンとイズー>を参考にした。』
② 指揮者はオーケストラと歌手の声とのバランスに気を遣うが、演出家はどう考えるのか?
→『歌手がのる舞台を三段つくった。それは同時に登場人物のヒエラルキーも表す。マルケ王は一番高い位置で歌う。一段目をトリスタンとイゾルデの歌う場所にして客席に声が届くようにする。』
③ 演奏会形式の難しいところは?→『場面転換が難しいが、コンピューター・グラフィックスを使って、スクリーンに海の風景を写すなどして、逆にオペラハウスにできないことをやる。』
だが、その演出にはブーイングを送りたい。前奏曲が始まるとスクリーンには二羽のツバメが飛んでおり、やがて海の上を航行する帆船が映り、次にタイトル・出演者のカリグラフィーが映し出される。これではまるで映画のタイトルロールだ。オーケストラがサントラを演奏しているようになり、音楽の重みが阻害されてしまう。実際に舞台が始まってからは、スクリーンに映る字幕に集中するため、余計な映像(船の帆先や森、地球など)はあまり気にならなくなった。
演奏内容についてだが、歌手陣ではブランゲーネの藤村実穂子が群を抜いて素晴らしく、主役のエヴァ・ヨハンセンとリチャード・デッカーの二人を完全に食っていた。無理せずとも楽々と聴き手に届く豊かな美しい声、正確な発音と細やかな演技と表情、まさに世界の超一流レベルだ。
つぎにクルヴェナルの石野繁生が、よく通る芯のあるしっかりとした声で魅了した。イゾルデ役のヨハンセンは無理に声を張り上げすぎてはいなかっただろうか?時に苦しげで余裕がないため、声に艶がなく表現がワンパターンになりがち。とはいえ、イゾルデ役として最後まで緊張を絶やさずに踏ん張っていたことは確かだ。
トリスタン役のデッカーは第1幕では声に輝きがなく声量も出ていないようだったが、幕がすすむにつれ、徐々に調子を取り戻してきた。
マルケ王のビャーニ・トール・クリスティンソンはこもりがちの声で、マルケ王の威厳を表現するところまではいかなかった。
コーラスの栗友会合唱団は迫力があり立派。
アルミンクの指揮は最初から最後まで流れがよく、歌手とオーケストラのバランスも完璧でオペラ指揮者としての力量は並々ならぬものがある。ドイツ語は彼の母国語であり歌詞の理解も深いため、アーティキュレーションがきわめて自然に聞える。それにしても4月の新国立劇場「薔薇の騎士」のキャンセルはかえすがえす残念だった。
新日本フィルはこの難曲を見事に演奏した。7月4日の第1回リハーサルに較べて音色に格段の深みが加わっていた。これだけの大曲を最小限の瑕疵で演奏しきったオーケストラにブラヴォを送りたい。団員のなかでは、アルミンクが最初に立たせて称賛したとおり、オーボエの古部賢一の美しい音色で要所を締めていた。
第2幕が65分と通常より10分近く短く、「愛の二重唱」の前のトリスタンとイゾルデの長大なやりとりの一部がカットされていた。
クリスティン・アルミンク© Shunpei Osugi
思い出のコンサート 上岡敏之 東京フィル シューベルト《未完成》《グレート》2011年7月21日
演奏会の中止や延期が相次ぐため、ブログに未掲載の過去のコンサート・レヴューを紹介しています。
東京フィルハーモニー交響楽団は、短縮する場合、楽団の希望として、「東京フィル」を使うことになっていますが、この文章を書いた当時は、一般的に「東フィル」が使われていたので、修正せずそのまま掲載します。
2011年7月21日木曜日午後7時
東京オペラシティコンサートホール
指揮:上岡敏之 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 座席:2階L1列44番
シューベルト:交響曲第7番 ロ短調「未完成」D759/交響曲第8番 ハ長調「グレート」D944
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東フィルは最初の「未完成」から、16型(15-14-12-10-8 )の大きな編成で臨んだ。第1ヴァイオリンは15人。
第1楽章、出だしのコントラバスのドイツの深い森の奥から聞こえてくる木霊(こだま)のようなひそやかな始まりから、すでに上岡の世界に引き込まれていく。第1主題のあとの練習番号Aからのホルンの柔らかなハーモニーは絶品。第2主題を奏でるチェロは期待通りの木の香りがする深い響き。第1楽章の冒頭に出てくるモノローグは、2回目、3回目と登場するたびに表情が濃くなっていった。
第2楽章全体は終始深遠な響きを保っていたが、それを支えたのが要所を締めたヴィオラ、チェロ、コントラバスのピチカートの奥深い響きだ。あのような深い音を日本のオーケストラから聴くとは思ってもみなかった。
クラリネットが第2主題を奏でる直前、プログラム解説の野本由紀夫さんが言う「糸が切れた凧(たこ)のように突然の先行き不明になる箇所」(60小節目からの4小節)でのピアニシモはこの世のものとは思えないほど繊細な、ピンと張った音で、そこには極度の緊張が凝縮されていた。
全体は、第1楽章アレグロ・モデラート(ほどよく速く)、第2楽章アンダンテ コン・モート(ゆっくり 表情をつけて)を楽譜の指定通り実現したテンポで、歌わせるところは心行くまで歌わせ、また音を強調する箇所でも合奏が濁らず、各楽器の音がクリアに聞き取れたのは、上岡の力だと思う。 このように「未完成」は期待に近い出来だったが、東フィルが上岡の要求に百パーセント応えたとは言えなかったのではないだろうか。ヴァイオリンの響きはやや艶がなかったし、管楽器の表情も色彩感やふくらみが少し足りなかった。しかし、後半の「グレート」では、弦は艶を取り戻し、管もわずかなミスを除いて豊かな音を響かせ素晴らしい名演となった。
「グレート」第1楽章冒頭、上岡の指揮棒は宙を舞うように大きな孤を描きながら、4拍子で「ドーーレーミ ラーーシード」と朗朗とホルンを歌わせた。その響きには、かつての巨匠たち(フルトヴェングラー、ワルター、ベーム、セルなど)の重く渋い音とは異なる、爽やかさ、軽やかさ、清新さが感じられた。2拍子のアレグロ主部は速いリズムで畳み込んでいく。弾むような弦楽器と、それに対応する管楽器の三連符のスムースさは、まるでジェットコースターに乗っているようで楽しくなってくる。
第3主題他で活躍する三本のトロンボーンの明るさ力強さはこの交響曲を象徴するものだが、東フィルの三人のハーモニーは豊かで心地よい。展開部も乗りがよく、最後のクライマックスは早めのテンポで輝かしく終わった。
第2楽章はやや速めのテンポでオーボエがA主題を奏で、クラリネットが後を追う。弦が奏でるB主題はこの交響曲の最も美しい部分のひとつだが、上岡の指揮はフレーズの切り方が一筆書きの最後の細やかな線のように繊細で美しい。
第3楽章スケルツォの躍動感はどうだろう。いま生まれたばかりのような新鮮さがあり、チェロの歌わせ方などに勢いのある上岡節が炸裂している。トリオの軽やかさは緑の絨毯に乗って飛んでいるようだ。オーストリアの初夏の香りがしてくる。 指揮に集中する上岡は楽章ごとにたっぷりとした間をとる。
第4楽章に入っても音楽の勢いは止まらず、ベートーヴェンの交響曲第7番のような躍動が続く。ホルンに続く第2主題(169小節目以降)は上岡も実に楽しそうに指揮していた。クラリネットが奏でるベートーヴェンの第九の「喜びの歌」に似た旋律(385小節目から)も加わって、一直線にコーダに向かって突き進んでゆく。1057小節から1060小節に見られる弦楽器とホルンとファゴットがフォルツァンドを4回ずつ都合3回繰り返すところの迫力は今回の「グレート」の頂点だったと思う。
そしてコーダの最後にとんでもない「大どんでん返し」が待っていた。最後の和音は当然輝かしくフォルテで終わると思っていたら、音の最後をピアノでふっと切ってしまった。これには本当にびっくり仰天した。こんなコーダはいまだかつて聴いたことがない。謎だ。
(注:今考えれば、休止後の最後の4小節の頭の > をアクセント記号と読むか、ディミヌエンドと読むかの差で、上岡敏之はたぶん自筆譜を参照して、ディミヌエンドと判断したのだろう。そのあたりを自筆譜、ブライトコプフ、オイレンブルクの楽譜と比較したブログがあった。
https://blog.goo.ne.jp/amanuma14/e/87aa2a4cddae1bc5e653e949d9dd2abe
)
「未完成」でも「グレート」でも、上岡と東フィルに送られた拍手とブラヴォのすごさと演奏会の成功ぶりからして、東フィルがまた上岡に声をかけることは間違いないと思う。次回の共演が本当に楽しみだ。
(この後、新国立劇場のピットでヴェルディ「椿姫」の共演はあったが、コンサートでの再共演はなかったような気がする。)
上岡敏之(c)大窪道治
書評「オペラで楽しむヨーロッパ史」加藤浩子著 (平凡社新書)
「オペラには作品がテーマとする時代と作品が成立した時代の二重の歴史が反映されている」という視点がこの本の切り口になっている。これまでのオペラ鑑賞の方法がより広く深くなるのではないかと思える示唆に富んだ本だった。
最も面白かったのは、第4章「ジャポニズムが行き着いた《幻想の日本》─《蝶々夫人》への道」。
ロマンティックな旋律と悲劇的なストーリーが涙を誘うプッチーニ《蝶々夫人》は個人的には大好きなオペラだが、著者は「《蝶々夫人》は、女性を性的対象としか見ない男性視線があらわ。原作群では自分の立場をきちんとわきまえている蝶々さんが、オペラではあまりにも世間知らずに描かれる。これでもかと泣きを迫るプッチーニの音楽とあいまって感情移入ができず、居心地が悪い」として、このオペラは苦手だとはっきり言明する。
その根拠について、著者は《蝶々夫人》の原点となったピエール・ロティ著「お菊さん」や、海外での日本文化受容史に言及しながら、ジャポニズム・オペラ成立の背景と日本への偏見という問題点を、女性ならではの鋭い視点で指摘していく。
自分の《蝶々夫人》観はこの本を読んで少し変わったかもしれない。著者が「直接の原作となったロングの小説やベラスコの戯曲を読んでも、本当の背景はわからない。『お菊さん』はオペラ《蝶々夫人》に関心を持つ人間の必読書である」と言うように、まずは『お菊さん』を読んでからこのオペラを鑑賞せねばなるまい。
著者はテオドール・クルレンツィスが指揮する斬新な《フィガロの結婚》をCDで聴き、「これは革命の音楽だ」と思い、時代が見えたと言う。その時モーツァルトの三大オペラをフランス革命の視点から見直そうと思い立ち、それがこの本を書いた出発点になった、とあとがきで書いている。
クルレンツィス自身も《フィガロの結婚》CD解説のインタビューで、『《フィガロ》は壮麗な古典様式であると同時に非常に革命的でプロテスト精神に満ち、今日的な意味をもつ作品』と語っており、著者の考えを裏付ける。
本の第1章「モーツァルト《三大オペラ》とフランス革命」、第2章「ヴェルディとイタリア統一」、第3章「ドイツ統一とワーグナーのオペラ」は、その「フランス革命」が共通するキーワードだ。
《フィガロの結婚》の原作を書いたボーマルシェ、台本作家ダ・ポンテと作曲者モーツァルトはフランス革命の時代を生きた。貴族を痛烈に批判する《フィガロ》、「自由万歳!」とドン・ジョヴァンニが叫ぶ場面、フランス革命の原動力となった啓蒙主義を理想としたフリーメイスンの影響を感じさせる《魔笛》というように、モーツァルトのオペラには、明らかにフランス革命の影響が見え隠れする。著者はそうした事例を示しつつ、モーツァルトの音楽自体の素晴らしさにも目を配っている。
フランス革命とナポレオン戦争の影響で、中小の国家に分裂していたイタリアやドイツにナショナリズムが生まれ、統一への動きが活発化する。同じ年に生まれたヴェルディとワーグナーが、どのように自国の統一にかかわっていったのか。作品はそれをいかに反映したのか。こうした点が生き生きと描かれた第2章、第3章も惹き込まれるものがあった。
第5章「時代の写し絵となった国民的ヒロイン─ジャンヌ・ダルクとオペラ」では、ジャンヌの活躍と悲劇的な火刑、復権裁判、死後の受容と復活が最新の資料に基づき丁寧に解説されている。ジャンヌをテーマにしたヴェルディとチャイコフスキーのオペラと史実との違い、その2作と歴史的検証を得た後に書かれたオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」との比較も興味深い。著者が取材で訪れた現地フランスのジャンヌ・ダルクへの熱狂ぶりのレポートも面白い。
第6章「シェイクスピアと歴史とオペラと」では、当時のイングランド国王ジェームズ一世を最大のパトロンとしたシェイクスピアが戯曲《マクベス》を書くにあたり、ジェームズをおもんばかり、ジェームズ家の祖先と言われるバンクォー(もともと架空の人物とされる)を登場させ、実在のマクベスを悪役としたことなど、シェイクスピアが置かれた微妙な立場が描かれていく。
ヴェルディは当時イタリアでは知られていなかったシェイクスピアにほれ込み、オペラ《マクベス》を作曲するが、原作の本質的な部分、ジェームズ一世を暗殺しようとした国会議事堂爆破が失敗に終わり、カトリック教会ヘンリー・ガーネット神父らが捕えられ残忍に処刑された事件を暗示する門番のセリフが、ヴェルディの作品ではカットされているという指摘がなされる。
この事件では、シェイクスピアの同郷者や縁戚も処刑されており、シェイクスピアが戯曲で暗示することは相当なリスクがあったはずだと著者は書く。
ヴェルディと台本作家ピアーヴェ、マッフェイは、なぜその重要な部分をカットしたのだろうか。その理由までは書かれていないが、その代わり、ヴェルディは、国家統一運動を鼓舞する合唱曲「妨げられた祖国よ」を挿入したことが、シェイクスピアとの違いとして紹介される。
このほか《ハムレット》についてもトマのオペラと比較されている。
本には言及されたオペラのあらすじと、推薦DVD、CDが紹介されるなど、読者への配慮も行き届いている。
参考になる点をメモし、罫線を引いたため、読み終わった後は書き込みでいっぱいになってしまったこの本は、今後もオペラを鑑賞するにあたり、時々取り出して読むことになりそうだ。
思い出のコンサート チョン・ミョンフン アジア・フィルハーモニー管弦楽団 (2011年8月2日)
コンサートの中止・延期が続いているため、ブログ未掲載の過去のレヴューを紹介しています。
2011年8月2日火曜日午後7時 サントリーホール
指揮:チョン・ミョンフン 管弦楽:アジア・フィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調作品92
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調作品68
今夜のような熱気と高揚感を感ずるコンサートは極めてまれだ。
ベートーヴェンもさることながら、ブラームスは燃えに燃えた演奏で、文字通り聴衆を興奮の坩堝(るつぼ)に巻き込んだ。
成功の要因はチョン・ミョンフンとアジア・フィルハーモニー管弦楽団が共有する使命感の強さ、両者の高い音楽性にある。
世界の一流オーケストラで活躍する音楽家たちが年に一度集うオーケストラといえばサイトウ・キネン・オーケストラを想起させるが、『音楽こそが、言葉の壁を乗り越え、国境やイデオロギー、宗教や文化の違いを越えて、世界に平和をもたらすことが出来る唯一の手段である。』というチョン・ミョンフンのメッセージが強く発せられている点が異なる。
1997年日本で創立公演を行った後、中断を経て、2006年ソウルで再開。07、08年東京、09年、10年は北京、11年は7月30、31日ソウル、昨夜の東京のあと明日8月4日北京で公演を行う。
主なメンバーはロバート・チェン(コンサートマスター、シカゴ響コンマス)をリーダーに、ソウル・フィルから多数、日本はN響、東フィル、新日本フィル、読響をはじめ、ボストン響、サンフランシシコ響、ロンドン響、コンセルトヘボウ管など世界の一流オケで活躍する楽員も含まれる。
音楽について書こう。まずベートーヴェンの7番。
第1楽章冒頭はフォルテである(フォルティシモではない)ことを気づかせてくれる柔らかく豊かな響き。美しいオーボエは東フィルの首席、加瀬孝宏?テンポは遅め。この時点で弦楽器とくにチェロ、コントラバスの底深い音に気付く。フルートによる第1主題提示は柔らかな響き。練習番号Bからの第1主題(のだめカンタービレのテーマでおなじみ)からテンポはぐっと加速する。176小節からの繰り返しはあり。再現部はどうだったか記憶がない。終始部のバソ・オスティナート(持続する低音。401小節から)は思ったほどバスを鳴らさなかった。コーダは堂々としたテンポ。
第1楽章の後半(たぶん370小節付近)でコンサートマスターの弦が切れるハプニングが発生。コンマスはすぐさま副首席(N響の山口さん)とヴァイオリンを交換。副首席はそのヴァイオリンでしばらく弾いたあと第4奏者(副首席の真後ろ)のヴァイオリンと交換。コンマスはその第4奏者に弦の予備を手渡す。彼女はコンマスのヴァイオリンの弦の張り替えを行う。張り替えたヴァイオリンをコンマスに戻し、コンマスは副首席にヴァイオリンを返し、副首席は第4奏者にヴァイオリンを返し一件落着。
五嶋みどりがバーンスタインとのコンサートの最中に二度もヴァイオリンの弦を切り、その都度コンマス、副首席のヴァイオリンと交換してバーンスタインの自作を弾き切った「タングルウッドの奇跡」を思い起こさせる光景だった。
第2楽章アレグレット、ゆったりと歌う。27小節からのヴィオラ、チェロの対旋律が美しい。第1ヴァイオリンも加わる。(コンマスも無事参加。)クラリネットは東フィル首席の万行千秋?中間部104小節からのドルチェのソロがきれい。チェロとコントラバスのピチカートの深い音がずっと続く。第3部からのフルート、オーボエ、クラリネットのハーモニーもよい。総じて木管がすばらしい。
第3楽章プレスト、速い!どんどん追い込んでいく。チョン・ミョンフンの指揮棒の細かな振り分けが見事で全く無駄がない。練習番号Cからの総奏のトランペットは思い切り吹かせる。コーダは一気呵成。
第4楽章に休まず入る。予想通りのすごい盛り上げと加速。提示部の練習番号A、第2主題Bでそれがさらに加速。Dからの煽り立てはすさまじい。114小節から第2ヴァイオリンとヴィオラが超高速パッセージに必死についていく。提示部の繰り返しありで音の奔流のごちそうをいただく。展開部、再現部を経て、終始部363小節からのチェロとコントラバスの低音だが今度はすごい。まさに重戦車だ。このバスの上に乗って管楽器と弦楽器が爆走する。Sからのフォルテシモから一気にコーダに突入していく。
ブラヴォ!
ブラームスの交響曲第1番について
第1楽章ウン・ポコ・ソステヌート。序奏から悠然としたテンポ。大河のように流れる厚みのある弦。この充実した響きは中低音部の土台がしっかりとしていることによる。ひときわ大きな音で美しいソロを奏でるオーボエはボストン交響楽団副首席の松尾圭介だ。展開部も堂々としている。再現部の練習番号Oの先460小節からの弦楽器と管楽器が呼応するところと、470小節からのティンパニの畳み込むようなリズムの刻みは、荒波に向かって進む船が大きく揺れているようだ。
第2楽章アンダンテ・ソステヌート。ひたすら美しい歌を歌う楽章。オーボエとクラリネットが素晴らしいソロを展開する。90小節目からのヴァイオリン・ソロを弾くロバート・チェンは、美しいだけではなく芯のあるしっかりとした音で、さすがにシカゴ交響楽団のコンサートマスターは違うと思わせる。チョン・ミョンフンも指揮台の上で満足げにうなずく。
第3楽章、クラリネットの音がすばらしい。中間部の管楽器と弦楽器は豊かなハーモニーを目いっぱい奏でる。
第4楽章に休みなく入る。序奏はクララ・シューマンが言う「なにやら暗い恐ろしいような雰囲気」。ティンパニの一撃が深い。ティンパニストは白人系の顔からしてソウル・フィルの首席Choi, Edward Junだろう。ピウ・アンダンテのホルンはゆったりと朗朗と鳴らす。Cのトロンボーンのハーモニーが続く。提示部アレグロ・ノン・トロッポの主部の有名なメロディーも実に堂々として全く揺るぎがない。オーケストラが全奏するD、第2主題からオーボエソロをはさみ展開部に入っていくあたりは爽快感がある。再帰再現部は提示部よりさらに豊かに歌わせる。
いよいよコーダ。ピウ・アレグロからの勇壮なリズム、407小節のコラールは圧倒的。445小節からテンポを落として、最後はアルプスの頂上を一歩一歩征服するかのように、たっぷりとした間をとってこれ以上はない輝かしさと異常なまでの大音量を持って終わる。
空恐ろしいブラームスだ。重戦車いや、もっと巨大な物体が動いている感じの音楽。
会場を揺るがすようなブラヴォとともに一部の聴衆は早くもスタンディングオベイションになっている。
何度も何度もミョンフンはステージに呼び戻されオーケストラを起立させる。各奏者たちは最初にオーボエからフルート、ファゴットの順で木管、そしてホルン、トロンボーン、トランペットの金管。ティンパニには聴衆から一段と大きな拍手が送られた。もちろん弦楽器奏者も各セクションごとに。そして素晴らしいソロを弾いたコンサートマスターには特別の賛辞をもって。
拍手を抑えてミョンフンは日本語で聴衆に語りかける。「スバラシイオーケストラデショ?」。聴衆から拍手。つぎに楽員に日本語を確認しながら、「ウツクシイオーケストラ。ジャパニーズ、コリアンズ、チャイニーズ、オール・トゥゲザー!」。この言葉には胸が熱くなった。
「アンコールニベートーヴェンノ5thシンフォニーヲエンソウシマス」と言って、「運命」のフィナーレを、それこそオーケストラが翼を広げて飛んでいくような軽々とした表現で演奏した。自然と顔がほころんでくるような「運命」。
オーケストラが舞台から去っても拍手はやまず、再び登場したミョンフンはソロカーテンコールを受けるのかと思ったら、オーケストラ全員を舞台に呼び戻し、先にP席の聴衆に深々と一礼。美しい光景だった。アジア・フィルには来年もぜひ来てほしい。必聴のオーケストラだ。
チョン・ミョンフン©Brescia e Amisano
思い出のコンサート PMFチャリティ・コンサート (2011年8月4日・東京オペラシティ)
コンサートやオペラが中止・延期が続くため、ブログ未掲載のコンサート・レヴューを紹介しています。
2011年8月4日木曜日午後7時 東京オペラシティコンサートホール
指揮:ファビオ・ルイージ 管弦楽:PMFオーケストラ
クラリネット:スティーヴン・ウィリアムスソン
モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調K.622
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲」と「愛の死」
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調作品73
2010年からPMFの音楽監督となっているファビオ・ルイージの指揮。クラリネットはメトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席奏者スティーヴン・ウィリアムスソン。
モーツァルトのクラリネット協奏曲。ルイージは早めのテンポ、ヴィヴラートのないさらりとした感触でオーケストラを鳴らす。ウィリアムスソンもその快適なテンポについていく。途中ウィリアムスソンはしきりにクリーニングペーパーでトーンホールにたまった水をとる。ついにはクラリネットの休止の間にスワブを通して管内の水を取っていた。やはり湿気の影響かもしれない。
この日の東京は雨が降ったりやんだり、午後急に陽が射して蒸し暑かった。もしそうだとすればクラリネットがずいぶん地味に聞えたのは、本人にとっては不本意な音色だったのかもしれない。それでも低音から高音まで伸びる滑らかな音と陰翳のある表現力は群を抜いていた。
特に、第2楽章でのピアニッシモ!! ひそやかなクラリネットの音とオーケストラの弱音が造り出した信じがたい音は今夜の白眉。まさに時間が止まった瞬間。CDでは絶対に再現できない。この感動があるからこそコンサートに通うのだが、いつも出会えるわけではない。今夜は幸せだ。
ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲」と「愛の死」。コントラバスは10台に増え、ヴィオラ13人、チェロ12人の18型のフル編成になる。(ヴァイオリンの人数は席から確認できず。)
20代そこそこの若い奏者たちに、たっぷりとした官能的な音色を求めるのはまだ酷だろう。やや硬く幼い響きは「トリスタンとイゾルデ」ではなく「ロミオとジュリエット」といった風情だ。しかし「愛の死」のクライマックスのオーケストラの全奏はルイジが求める深みのある音になっていた。
「愛の死」の最後の3小節のrallent(だんだん遅く)をルイジは思いを込めて終わらせようとしたが、またしても残念な拍手のフライングが音楽を壊してしまった。指揮棒が降りるまで拍手を控えるようにプログラムに書くべきだ。
後半のブラームスも18型のフル編成。
第1楽章第1主題を奏でるホルンの音がさえない。ティンパニ奏者が替りトレモロの音がよい。金管に較べ、弦楽器はまとまりがあり、その音色も提示部の繰り返しから、表情が豊かにしなやかになってきた。
第2楽章冒頭の美しいはずのチェロの音はまだ硬い。もうすこし柔らか味が欲しい。30小節目からチェロもよくなる。ホルンは相変わらず不調。対するに木管群は大健闘。とくにオーボエ。第3楽章でもオーボエの音色がよい。
第4楽章になっても、金管と弦のバランスが相変わらず悪い。第2主題での木管は好調。
『それにしても、ルイージもこういう金管をコントロールしていくのは大変だしつらいだろう。せっかく弦楽器と一緒に組み立てた音をぶち壊しにしてしまっている。』と心の中で悪態をついていたら、再現部からその金管が俄然良くなってきた。
コーダの第3部分からのホルン、トランペット、トロンボーン、テューバはまるで別人のような輝かしい音を奏でているではないか。417小節からコーダの最後までのわずか13小節で、それまで継続してきたオーケストラ・コントロールのたががはずれたかのように、あるいは耐えに耐えてきた鬱憤のすべてを吐き出すかのように、ルイジはオーケストラを極限まで煽り立て、驚天動地の咆哮を鳴り響かせた。タケミツメモリアルホールの高い天井のガラスを突き破らんかとするような鋭く突き刺さるその音響は、畏怖さえも感じさせた。こういう音を出せるとは、学生達自身も思ってもみなかったのではないだろうか?
聴衆もまさに度胆を抜かれ、直後にすさまじいブラヴォが巻き起こった。そして喝采と拍手は、度重なるアンコールのあとのルイージのソロ・カーテンコールまで止むことはなかった。あのような音はブラームスの2番で聴いたことがない。いまも頭の中で鳴っている。
ファビオ・ルイージ©Barbara Luisi
チェリスト徳永兼一郎 没後24年
徳永兼一郎さんが1996年5月17日に亡くなられてからもう24年になるんですね。当時CDClubの制作を担当していて、NHKテレビの「最期のコンサート~あるチェロ奏者の死」を見て感動し、追悼盤を企画しました。音源はバンダイミュージックに2枚あり、その中からベストと思われる演奏を選曲しました。
解説は諸石幸生さんにお願いしました。
写真はジャケットと曲目メニューです。
徳永兼一郎さんのお写真をお借りするため、ご自宅まで伺いました。
奥様から「さすが音楽をわかっていらっしゃる。よい選曲ですね。解説の諸石さんにもよく書いていただき感謝申し上げます。」とおっしゃっていただき、制作者冥利に尽きる思いがしました。
番組はyoutubeで見られます。
https://www.youtube.com/watch…
奥様は見本としてお送りしたCDのほか、10枚ほど購入され、徳永二男さんにも送られたと思います。
思い出のコンサート 大野和士 東フィル マーラー「復活」(2011年8月29日)
コンサートの再開が少し見え始めてきました。もうしばらく、特に印象に残った過去のコンサートの思い出を続けます。
2011年8月29日月曜日午後7時 サントリーホール 座席:2階C列31番
第41回サントリー音楽賞受賞記念コンサート。 ホールに皇太子殿下の臨席あり。
指揮:大野和士 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ:並河寿美 アルト:坂本 栄
合唱:国立音楽大学、東京オペラシンガーズ
合唱指揮:田中信昭、永井宏、宮松重紀
グスタフ・マーラー 交響曲第2番 ハ短調 「復活」
大野和士の音楽に圧倒された。コンサートで、これほど凝縮した音楽が奏でられることは奇跡のように思える。大野の集中と緊張は、最初から最後まで一瞬たりとも緩むことがなく、一音一音に魂が込められていた。個人的には「復活」の興奮や高揚感のかわりに、もっと静的で、記憶に刻まれるような深い感動が残った。一方で、大野への盛大な拍手とブラヴォ、二度のソロカーテンコールは昨年のプレートル&ウィーン・フィルへの聴衆の熱狂的賛辞を思わせた。
プログラムに寄せた大野の言葉がある。『「復活」・・・この二文字に全身全霊をこめて、皆さんと共に、祈りをささげたいと思います。』。「祈り」は東日本大震災の犠牲者の方々へささげられたものと考えられる。今夜のコンサートの趣旨は「祈り」だ。「復活」の喜びでも、勝利でもない。
「復活」の合唱が高らかに歌い上げられ、オーケストラが大音量で終わっても、指揮棒が下りるまで、しばし沈黙が保たれたのは、大野の思いが聴衆の心に届いたためだろう。それだけに、聴衆のひとりの大声でのブラヴォのフライングは残念。
演奏をふりかえってみよう。
第1楽章冒頭、東フィルのチェロとコントラバスが刻む主題の深い低音の響き、金管の切れ味鋭い音。主題を指揮する大野の指揮棒は巨大なアークを描く。大野の気迫が会場を圧し、演奏者も聴衆も棒の先に全ての意識が吸い寄せられていくようだ。練習番号20からの全オーケストラの強奏はホールの壁が震えるばかりに凄まじい。
第2楽章のゆったりとした弦の響きがたとえようもなく柔らかい。練習番号5からの主部展開部でのチェロの歌わせ方が出色。12からの主部第2の展開部での何でもないような弦のピチカートの表情づけにも大野は全身を使い指揮する。そこから生まれる音楽は生き生きと輝いており、大野と東フィルの深い信頼の絆を感ずる。
第3楽章スケルツォ冒頭のティンパニの一撃にたじろぐ。滑らかに歌うクラリネットをはじめ、総じてこの夜の東フィルの管は、金管も木管も渾身の力で演奏して見事だった。
第4楽章「原初の光」。坂本栄の音程がやや不安定。トランペットの弱音は難しいが、音程を少しはずす。短くともこの楽章は聴く人に深い感動を与えられるはずなのだが…。
休みなく第5楽章に入る。
大野和士は、ひたすらに音を掘り下げていく。最弱音から最強音まで、常に緊張を強いるその音楽は、聴くものにとっては身体を貫かれるように痛い。闘争と敗北、過去の記憶と現在の葛藤が交互に現れてくるようでもあり、息つく間がない。練習番号15の先、行進曲で大野は思い切り重心の低い音を求める。しかし東フィルの弦はパワー不足。22からのオルガン左右のドアが開き、風に乗って聞こえてくるようなバンダの演奏は完璧。26からのクライマックスで大野は限界を超えるまで音を求め続けた。
P席に座った合唱団がそのまま「復活」の合唱を始める。テンポはきわめてゆったりとしている。合唱は引き締まり問題はない。
最初に「静的で、記憶に刻まれるような深い感動が残った」と書いたように、「よみがえるだろう、私の心よ、一瞬のうちに!おまえのたたかいとったものがおまえを神のみもとへ運ぶであろう」の本来感動に打ち震えるはずのクライマックスと全オーケストラの総奏を聴き終った後も、高揚感とは少し異なる感情が残っていた。
大野和士はソロ・アンコールで舞台に出てきたとき、天井に向かって祈るような姿勢を見せた。その祈りの気持ちに貫かれた凄絶な「復活」だった。
大野和士©Kazushi Ono